ドラマ「善徳女王」のファンブログです

    「善徳女王」を勝手に地図にしてみよう タクラマカン砂漠
    トンマンがソファと暮らしたタクラマカン砂漠。されど、タクラマカン砂漠といえどもとても広い。オアシスも何箇所もある。じゃあ一体トンマンはタクラマカン砂漠のどのあたりで暮らしていたんだろう?ってことで、無理やり(笑)考えてみました。

    まずタクラマカン砂漠とは、中央アジア、中国の新疆ウイグル自治区にある砂漠で、語源はウイグル語の「タッキリ(死)」「マカン(無限)」の合成語と言われ、「生きては戻れぬ死の砂漠」という意味のあるとてもデンジャラスな場所です。
    そんな場所に赤子をかかえたソファが(もしくはもう少しトンマンが成長した後かもしれませんが)たどり着く。

    まず場所特定の手がかりとして、ソファの経営する旅閣には交易のためにいろいろな国から来た旅人で賑わっており、シルクロードのルート上にあると考えます。
    ソファの旅閣

    シルクロードのルートは大きく分けて3つのルートがあります。
    シルクロード地図
    天山北路:敦煌北方のハミを起点とし、天山山脈の北側を経て、西トルキスタンに至るルート。
    天山南路(西域北道):敦煌から吐魯番(トルファン)経由と楼蘭(ローラン)経由の2つのルートで庫車(クチャ)に至り、更に天山山脈の南側=タクラマカン砂漠の北側を通って喀什噶爾(カシュガル)に至るルート。
    西域南道:敦煌から米蘭(ミーラン)を経由し、タクラマカン砂漠の南側にある、若羌(チャルクリク)~且末(チャルチャン)~民豊(ニヤ)~和田(ホータン)~莎車(ヤルカンド)などの各都市を経て喀什噶爾(カシュガル)に至るルート。

    これらの内、西域南道の自然条件は砂嵐が起こり過酷で、危険度も非常に高い道で後に廃れていきますが、古代では諸コース中最短であるため利用度も高かったと言われます。

    また交易市がたつということで、シルクロードのルート上にある街の中でも、それなりに大きなオアシスなのではないかと想像できます。
    交易市

    さらにトンマンの住むオアシスには領主様がいます。
    領主様
    その領主は茶葉を売った利益を独占して私兵を増やすのが目的で茶の交易を禁止します。トンマンの住むところにいるのは領主であって国王ではありません。なので亀玆国のあった天山南路の庫車(クチャ)とかは除外して良いのではないかと思います。
    しかも領主は広東語を話し、広州地方出身ですか?と商人に聞かれています。

    ここで、トンマンが砂漠にいた頃の中国の情勢を考えてみたいと思います。
    まずは、カターンおじさんが「隋の商人から茶葉を買い付けられたとしてもどう城門を通り抜ける?」と言っているので、隋が興っていた時代のことだということはあっさりわかりました。
    そしてその中でも領土争いが止まず勢力分布図が常に変わる大陸において隋のいつ位なのかということですが、ドラマはフィクションなので、トンマンの生涯を史実に当てはめ年表を作ろうと思ってもひとつ取ればひとつおかしくなるみたいに矛盾する部分が多々出てきてしまいます。
    それを踏まえた上で、今回はチュンチュが2.3歳位?でチョンミョンと別れ隋に留学したということをとりあげてみると、いくらなんでも領土を侵略され衰退しようとしている隋には送らない気がしまして、とても勢いのある時代の隋だったのではないかと。隋は一時はタクラマカン砂漠のあたりまで勢力がのびていたこともあり、この広州出身の領主がいるこの場所もまた、隋の勢力下なのではないかと考えました。
    隋勢力図615年
    また、隋は西域を支配するために、鄯善、且末、西海(青海省西伏)、河源(古赤水城)に4郡を置いたといいます。鄯善・且末は西域南道のチャルチャンやチャルクリクのあるあたりなので、このあたりのオアシスにしぼります。

    そして、カターンおじさんの2つの台詞より。
    ひとつめは、ドラマが15年後の砂漠に場所を移してすぐトンマンはカターンおじさんと再会しますが、丘の上に立っておじさんが来るかどうか見ていたというトンマンに対して「今回は蒙古に用事があって、敦煌のほうから来たんだ。」と言っており、
    ふたつめは、トンマン・ソファがチルスクに襲われた後取るもの取らず逃げましたが、カターンおじさんはチルスクに「敦煌のほうへ向かった。旅の支度もしないで長時間砂漠をわたるのは無理だ。」と言っています。
    そこからもトンマンが住んでいたオアシスは、西域南道の中でも敦煌寄りのオアシスなのではないかと思います。
    敦煌への道
    敦煌方面へ馬を走らせるチルスク

    というわけで、以上の理由からトンマンとソファが暮らすオアシスは若羌(チャルクリク)に勝手に決定します!
    チャルクリクは古代から米蘭や楼蘭、敦煌、それにチャルチャン方面へとシルクロードを旅する基地としての要衝になっていたということです。当時は、今ある街よりももう少し北の砂漠よりだったという話もあります。

    タクラマカン砂漠地図

    私の独断と偏見で考えてみたので、まぁ違っても怒らないでください(笑)

    そして色々考えた割には、タクラマカン砂漠の中でも鶏林寄り、まさにタクラマカン砂漠の入り口っていう、当たり前っちゃ当たり前な結論に達したっていうw


    ちなみに実際のドラマの撮影は、中国寧夏省銀川と敦煌にて23日間かかって撮影したそうですね。
    銀川の華夏西部影視城(映画の撮影所)ではソファの旅閣の火災場面などの撮影を、テンゲル砂漠ではトンマンが砂にのまれたソファを探す撮影などを、敦煌のヤルダン地質公園ではソファがチルスクから逃げる場面の撮影を、鳴沙山の麓にある月牙泉では砂地に浮かびあがるオアシス月牙泉が領主の館としてそのまま使われているんですね。
    04話 領主の館
    ドラマ中の領主の館 (敦煌 鳴沙山・月牙泉)

    そして無理やりトンマンのオアシスを地図におとしてみてからふと思ったのですが…
    ローマへの道
    タクラマカン砂漠から鶏林まで遠いみちのりをよくぞトンマン一人で…(涙)と思ったのですが、それもすごいけどトンマンがソファに一緒に行こうと言っていたローマもこれまた遠いよねっていう(驚)

    ※ ドラマ中の台詞は字幕版と吹き替え版両方から参照しております


    「善徳女王」を勝手に地図にしてみよう ソファとトンマンがたどった道 【追記あり】
    地図企画、前回は無理やりトンマンの住んでいたオアシスを特定するという暴挙に出ましたが(爆)、今回はそこに至るまでのソファと赤子トンマンを思いっきり 妄 想 してみました。

    真平王に双子の片割れのトンマンを託されたソファは、月城→野山→菜の花畑→結界の張られている洞窟と逃げそこでチルスクに包囲されますが、ムンノに助けられ馬に乗ってその場から逃げ去ります。
    3話 馬で逃げるムンノとソファ

    そしてそれが何処であるのかはわかりませんが、とある場所にてトンマンとピダムは初めて出会います。
    31話 トンマンとピダムのはじめての出会い
    ムンノはソファに杭州で待っていればすぐそこに行くと言い手紙を持たせて先に旅立たせました。(31話でトンマンと再会したソファがトンマンにした話より)
    ソファがどこかの港から船で杭州へ旅立ったことは、チルスクが砂漠のトンマンと出会った時に語って聞かせた「一ヵ月後に港で見つけたが 侍女は船で杭州へ」という台詞からも確かなようです。

    当時の新羅の航路を調べてみたのですがいまいちはっきりした資料が見つけられず、どこの港から杭州行きの船が出ていたのかはわかりませんでした。ただ、日本の遣隋使・遣唐使の航路の南路と南島路は大宰府を出発して杭州へ向かう航路であったので、杭州は長安へ向かう玄関口のひとつとして栄えていたのだと思います。

    そしてソファのあとを追って、杭州にムンノが到着しました。
    30話 杭州
    杭州のキム・ドロクという人の屋敷ですが、新羅人の商人かなにかでしょうか。ムンノにとても敬意をはらっています。さすが国仙です。

    キム・ドロクさんは杭州の新羅人の住む村にいる人で、文具商をやっているそうです。
    25話のムンノの回想シーンにありました。【2012.10.28 追記】

    30話 キム・ドロクの部屋
    キム・ドロクさんは裕福そうですし、この屋敷もしっかり警護されていてチルスク=ミシル一派に追われるソファとトンマンにとっては身を落ち着けるにはとても安心な場所であると思うのですが、のちに「トンマンをミシルのいる新羅に行かせたくなかった」とトンマンに語ったソファは、ミシルの息子であるピダムと結婚させるというムンノの計画に恐れをなし、そして真平王の「赤子と徐羅伐を出るのだ そして助けてくれ」という言葉を守り、書き置きを残してトンマンを連れて出て行ってしまいます。保護してくれる人達から身を隠してまでもトンマンを権力のいけにえから守りたいと思ったソファの確かな決意が伝わってきます。

    そして場面は15年後のタクラマカン砂漠ということで、ここに空白の15年ができることになります。
    その空白の15年を妄想してみようと思うのですがその前に、気になっているこのシーンを先に。
    カターンおじさんと久しぶりに会ったトンマンはカターンおじさんに「鶏林語が上手になったね」と言いますが、それに対しカターンおじさんは「そうだろ?君の母さんにも褒められた」と嬉しそうに笑顔を向けます。それを受けてのトンマンのこの表情↓
    3話 君のお母さんも褒めてくれた
    ぶーとむくれるようななんとも言い難い表情なんですが、カターンおじさんと仲の良いソファに対するトンマンのやきもちなのか。

    そこから色々派生した妄想です、ご注意ください(笑)妄想スタート↓

    ムンノから逃げるように杭州を出た後、小さい赤ん坊をかかえた上に若くてべっぴんさんのソファですから、行く先々で危険な目にあっただろうと思います。チルスクから逃げ、ムンノから逃げ、挙句の果てには己れに降りかかる危険からも逃げて、大陸の奥へ奥へ進んでいったのではないかと。
    そして時の都長安へ到達し、そこはシルクロードの出発地点でもあるわけですからシルクロードを伝い敦煌方面へ向かって行きます。
    ですが路銀は尽き、また洞窟でチルスクに火であぶりだされたソファはそのせいで胸をわずらってもおり、体力付き果てて敦煌から西のタクラマカン砂漠の入り口あたりでトンマンを抱いたまま行き倒れに。
    そこを商団をひきつれたカターンおじさんが通りがかり2人を助け、砂漠のオアシスにあるなじみのおかみさんが経営する宿屋で看病し、回復したソファはカターンおじさんの口ききでそのまま宿屋で住み込みにて働くことになります。
    1年1年過ぎるとともにトンマンもすくすく成長していき、年老いていたおかみさんが亡くなると身よりのいなかったおかみさんの宿屋はそのままソファとトンマンが切り盛りするようになりました。
    カターンおじさんは小さい赤子を抱えてけなげに生きているソファに対して色々同情し、トンマンの成長も見守り、その後も立ち寄るたびに色々世話をやいてくれたのではないかと思います。

    いざというときにはびっくりするほどのパワー発揮できるソファですが、どうもソファがひとりで(たとえトンマンがしっかり者だとしても子どもは子ども)あの旅閣を一から立ち上げたとは想像しがたいんです。またもちろんトンマンをかわいがってはいますが、元はカターンおじさんが気遣いをみせる相手は赤ん坊を連れたソファで、昔からことあるごとにソファソファ言ってたのではないかとトンマンの表情から思い、こういう妄想になりました(笑)

    地図
    ↑ 超ざっくりしたwソファのだどったルート

    というわけでソファのたどった道ですが、はっきりしたルートはわかりませんし、一気にタクラマカン砂漠まで行ったのか、それとも途中途中どこかの町で暮らしながらすこしずつ移動して行ったのかはわかりませんが、ひとりで言葉もそれこそ通じない異国の地で、小さい赤ん坊をかかえたソファの道のりを想像すると涙が出ます。
    そして最初は逃げ腰だったソファに「私がお母さんよ 私が必ず助けてあげる」と決意させた赤子トンマンの100万ボルトの笑顔はなんて凄いんだろうと思ったりもします。
    3話 赤ん坊トンマン



    「善徳女王」を勝手に地図にしてみよう トンマン鶏林上陸
    最近はじめの方からまたドラマを見返していますが、字幕を出しながら日本語吹き替えで見るということをしています。そうすると今までに聞き流していた情報が色々入ってきてあれれ?と思うことがあったりしました。
    以前にトンマンがいたタクラマカン砂漠の街を特定してみようと書いてみた記事で、色々思考をこねくりまわしてこの時代の中国は隋の支配下であった!なんてこと決めてみましたが、先日もそうやって6話を見返していていた際、トンマンがチュクパンに初めて出会った時に「隋の国から遠い西の砂漠から来ました」とか、ソルチのいる伽耶の移民の村でつかまった時に「隋の商人に売り飛ばしましょう」とかいう台詞が出てきたんです。
    この時代が隋なのか唐なのか悩んだんですが、おもいっきり台詞の中に出てきていましたーっていうオチが!(爆)

    ということで遠回りしながらwすすめておりますが、今回はいよいよトンマン朝鮮半島上陸編です。

    砂漠でソファを失った悲しみにうちひしがれていたトンマンですが、ようやく一歩踏み出そうと旅立つことになります。一旦トンマンと別れてローマへ旅立とうとしたものの、トンマンが気になり一度戻ってくるカターンおじさん。
    5話 カターンおじさんの馬
    鶏林に行って自分が何者であるか知りたいというトンマンに理解をしめし、道中危険だから男の格好をするようにと言って帽子をくれたカターンおじさんですが、男の格好をしていても女の子の一人旅です。えーっと、もちろんその馬も置いて行ってくれますよね?普通はくれるよね?おじさんはあとからどっかで馬を買ってねってことで、ちょっぴり強奪ぎみに馬をいただいたことにしてみますw

    この馬に乗ってまずは東の敦煌を目指したのでしょうか?そこからシルクロードの拠点である隋の都長安に向かったとしまして・・・ぶっちゃけそのあとのことは良くわかりません…!(えー!)
    ソファが大陸にたどり着いた杭州から半島行きの船に乗ったのか、それとも別の港町から船に乗ったのか。
    05話 トンマンの乗る船

    出発した港はよくわかりませんので、船に乗ってたどり着いた場所のほうを考えてみたいと思います。
    トンマンは鶏林の港に着いて、おそらくそのまままっすぐに万弩(マンノ)郡に向かったと思われます。
    05話 万弩城
    城の扁額は「萬努城」となっていますが、字幕は万弩城だったのでこちらの漢字をここでは使います。
    万弩郡の大守はユシンの父のキムソヒョンで、実際に鎭川邑上桂里ケヤン村には「興武大王金庾信将軍誕生址」という史跡が残されています。さらにその敷地内の山の頂上には、金庚信将軍のへその緒をおさめた「胎室」もあるそうです。へその緒といってもその真偽のほどは定かではなく「胎室」というとなんとなく後世に作られたもののような気もしますが。それはともかく、金庚信将軍が幼いころに武術の練習をしたとされる兜岩や馳馬台、当時の井戸「蓮宝井」も現存しているそうです。
    このことからも万弩郡は現在の忠清北道鎮川のあたりとはっきりとわかるのですが、では何故トンマンが万弩郡にやってきたのでしょうか。

    ・・それは自分の出自を知るためのたったひとつの手掛かり、“ムンノ”の生まれ故郷であったから。
    万弩城の市の絹を売っている商人に「ムンノが故郷にいると聞いて来たんだ」とトンマンは言い、「確かに彼の故郷だが姿を見せない」と言われています。
    知らないと言われてもめげずに聞きまわっていたトンマンですが、こんな感じで鶏林に着く前大陸にいる時から、ソファが杭州に着いて最初に立ち寄ったキム・ドロクさんのいたような新羅人の村や、新羅に詳しい人に会うたびにムンノのことを聞いてまわっていたのではないかと思うんです。そこですでにムンノの出身地は万弩郡という情報を得たのではないかと。

    そう考えた上で、万弩郡のあたりの地図を見てみます。
    マンノ郡地図
    もしはじめから万弩郡を最初の目的地にしていたとしたら、そこに近い港から上陸するのが一番手っ取り早いのではないかと思うんです。
    トンマンの乗っていた船の船頭は中国語で「鶏林だ やっと着いたぞ」と言っているので、新羅の国内便ではなく隋から直接来た船だと思いますし。

    05話 鶏林の港
    トンマンの乗った船は大きな河のような水路を進み、港にたどり着いています。
    半島の地図を見るとちょうど湾になっている部分があり、そこから河をさかのぼり、万弩郡近くの港に着いたと考えてみました。
    実際のその時代の航路や港について資料がみつけられなかったので、あくまでも想像の範囲内です。

    最後にもうひとつ。
    カターンおじさんから馬を貰ったという事にしましたが、鶏林行きの船に乗った時には馬を連れていなかったことからもうひとつ遊んでみます(笑)
    6話 金の飾り
    チュクパンとコドに出会ったトンマンは、ムンノの居場所を教えてくれと金の飾りを差し出します。
    この金の飾りってどうしたんでしょうね?ソファが持っていたものだったんでしょうか?
    そして生まれたこの妄想。
    トンマンの旅の途中、歩くのも大変な御老人にカターンおじさんから貰った馬を譲ってあげた。そのお礼に御老人の家に代々伝わる壷を貰った。旅が進むにつれ壷は別のものに変わり、別のものはさらに別のものになり、最後に金の飾りに変わった。
    ・・・トンマンはわらしべ長者かwww


    「善徳女王」を勝手に地図にしてみよう 続・トンマン鶏林上陸
    しばらーく間があいてしまいましたが、前回はトンマンが海を渡って鶏林に着いた道のりを想像してみました。
    その時は隋側の出発港はわからないと言ったまま話を進めていたんですが、りばさんにコメント欄より「ケベク」に出てきた航路の話や、それをヒントに調べてくださった論文、そして円仁の『入唐求法巡礼行記』なる文献などたくさんヒントをいただきまして、また新たな想像をめぐらすことができました。
    りばさん!いつも助け舟ありがとうございます!

    それを総合すると、唐の時代には中国側の山東半島から北上し遼東半島を経由し東へ向かうルート、そして黄海をまっすぐ横断して朝鮮半島に渡るというふたつのルートがあったとヒントをもらいました。

    こんな役の立ち方をするとは思っていなかった(笑)まさかの「ケベク」、第35話。
    ケベク 赤山航路
    高句麗と軍事同盟を結んだ百済の将軍ケベクは、新羅と同盟を結んだ唐軍が攻めてくるであろうルートに関して高句麗のヨンゲソムンと話し合っています。
    山東半島の登州から北上し、遼東半島から南下するルート(赤い線)、山東半島の赤山浦から黄海をまっすぐ渡るルート(青い線)があり、まっすぐ横断するルートは赤山航路と呼んでいました。
    赤山航路はもとは百済が開拓し、党項城が占領されてからは新羅に奪われたとケベクが言っていました。
    ケベク 鵠島
    どっちのルートを通っても、鵠島(いまの仁川白翎島)を経由し、そこから上陸すれば高句麗を、南下すれば百済を攻めるとわかる、という内容の作戦会議でした。
    この二人の会議の内容はここでは関係ないのでおいておいて、気になるのは山東半島を出発しいまの仁川近くの島を経由して朝鮮半島西海岸に入るルートがあったという点です。

    トンマンが鶏林に向かったのはこれより50年程前国も隋の時代でしたが、同時に紹介くださった論文によると唐よりも前の時代からあった航路だということですし、100%このルートだとする決め手はないながらも、もしかしたらトンマンはこうして朝鮮半島に上陸したかもしれないなーなんていうイメージもできました。
    赤山航路
    赤山浦は、現在の中華人民共和国山東省威海市栄成市石島付近にあたります。

    そこでずっと頭にひっかかっていた、トンマンがチュクパンと出会った時に“2万里”遠くからやってきたという言葉を考えてみたいと思います。

    里は元々は古代中国の周代における長さの単位で当時は1里=約500mでしたが、その後時代により変動があったようで、このトンマンの時代は、『隋書』の高句麗、百済の記事にて朝鮮半島の東西幅が約1千里となっていることから、この時代は1里が300mと考えられるようです。1里=約300mとして2万里=6000km。

    それを頭にいれながら地図上でアバウトに計測してみました。
    トンマンの住んでいた砂漠の町と勝手に決めたチャルクリクから敦煌、西安に向かい、さらに宿のありそうな洛陽、鄭州、開封、済寧などの町を経由し、山東半島の赤山浦から海路を真東に海を進み、朝鮮半島の仁川あたりから万弩郡までの距離で約3600km…。うっ2万里には足りず。

    そこで、これもりばさんに教えて貰った円仁の『入唐求法巡礼行記』を読んでみました。時代はトンマンの時代より200年位あとの時代、僧円仁が遣唐使について唐へ渡り、経典などを持ち帰るまでの一大旅行記ですが、当時の旅の様子が生々しく記載されていて面白いですね。いわば今で言う旅ブログのはしりっていうか(笑)

    それによるとやはり昔の旅はとても大変で、船が定期的に出ているわけでもなく、長安から明州(今の寧波)に行ったものの出航する船が見つからず楚州などを経て山東半島の登州へ移動するなどスムーズに目的地へ向けた船に乗れるわけでもなく、また船に乗船できて出発を待っていても航海に良い追い風がなく15日も足止めをくらうなんてこともあったりしているんですよね。
    なので、2万里というのはとっても遠いところから来たということの比喩で使っているかもしれないですが、トンマンも最短距離で移動して目的の出発港へ向かったのではなく、円仁のように途中いろんなことがあって回り道をしたり、船を求めて港を転々と移動したりしての2万里なのかなとも思ったりします。

    2万里と言っていますがこれ、どうやって数えたのかなと思っていたんですが、これも円仁がこの本に書いていたのですが、唐では五里行くごとに一つの土堆(道標)を築き立て、十里ごとに二つの土堆を築き立てているということで。トンマンが旅した時代にもそれがあったかどうかはわかりませんが、もしあったとしたら賢いトンマンのことですから抜け目なくチェックしながら道を進んだような気がします。1万回数えながら岩を叩くユシンなみにきっかり数えていたんだろうとw

    面白かったのが、貸し驢馬なるものがあったようで。驢馬一頭の二十里を行く駄賃は五十文ということで、五十文の価値がどれくらいかはわからないんですけど、お金があればまあそれなりに楽な旅ができるというのは、今も昔も変わらないんですねー(←貧乏旅行常連者の自分w)
    トンマンなら路銀がもったいないと言って極力乗らずに歩いたんでしょうか。

    あと、旅先での宿の主人についても色々書いてありまして。
    主人は非常にていねいであった、主人は礼儀正しく昼食の菜も足りないということはなかったと書かれている宿主もいれば、主人は非常にけちん坊で一皿の菜をもらうのにも再三頼んでやっと、主人に菜・醤油・酢・塩を出してほしいと頼んだがどれもこれも出してもらえず仕方なくとうとう持参の茶一斤を出して醤油と野菜を買うことができたが、とても食べられるようなものではなかったと書かれている宿主もいたり。
    しまいには主人は極度にけちな人で一つまみの塩、一さじの醤油・酢さえ銭を支払わない限り出してくれないという、けち of the けちという書き方をされている宿主もw

    トンマンの旅を重ねて想像しながらこの円仁の旅行記を読んでいたんですが、こんな風にどけちな宿主とかとも色々かけひきをしながらトンマンもまたこのように旅をしたのかなぁなんていろいろ想像も膨らんだりして、楽しく読めました。
    トンマンって砂漠でソファと宿屋をしているときもたくさんの人と出会っていろいろな処世術を自然と身に着けたと思うんですが、鶏林への旅の途中でもまたたくさんの人と出会い、いい人であれ悪い人であれどんな人とのやりとりも無駄にせず人生の経験として吸収していったんだろうなーなんて思えました。



    「善徳女王」を勝手に地図にしてみよう 母山城の戦い
    はっ、と気づけば前回に書いてから半年経っているこの地図企画。亀並みにゆるい歩みを進めてますが、その間に緋翠さんがトンマンが鶏林へやってきた道のりの緋翠案をご自身のブログで聞かせてくださいました。
    mukugeさんに続け!~鶏林への道。@新羅時代の交易路
    もう目からウロコの緋翠案です。みなさんからいろいろ考えを聞かせてもらって、おかげでトンマンが苦労して鶏林へやってきた様子がさらにいろいろ想像できて楽しいですし、なんかワクワクしますね。ワクワクしすぎて眠れないんで、誰か胸トントンしてください(笑)

    さて、トンマンが鶏林へやってくる少し前に、鶏林では後継問題が発生しておりました。
    真平王の3人の王子は早世してしまっているため、チョンミョンの夫であるヨンス公を太子にすると真平王は宣言しますが、ヨンス公の父の真智王が廃位されたため聖骨から真骨に格下げになっており、真骨でもなく功績もない王では花郎は従えないと花郎達も反発します。
    そのためヨンス公は和白会議の席で、太子となる資格を得るために「出陣し母山城奪還作戦の先鋒になります」と宣言してしまいました。
    その母山城はどこにある?というのが今日のお題です。

    DVDの用語解説付き字幕と、封入されているブックレットの用語集には母山城:忠清北道の大母山城とあります。
    大母山城址は現在も城壁址が残っており、鎮川郡鎮川邑聖石里にあります。
    『三国史記 新羅本紀』によると「616年冬10月 百済が母山城に攻めて来た。」とあり、その後新羅は百済と椵岑城・母山城付近で激しく戦って幾つもの城を失い、また城主が戦死するなど敗戦が続きました。おそらくそういう史実をもとに脚色したドラマ中の母山城奪還作戦です。

    5話 作戦会議
    兵部令のソルォン公を中心とする軍事作戦会議です。

    敵の百済軍は2万
    プヨ・ジャンが率いる大軍が母山県を基点に三山まで進軍を
    道実郡で百済の援軍が合流するでしょう
    敵の士気は高い
    先発部隊は乙尾峠の制圧をお願いします
    左右にいる潜伏兵との激戦になるでしょう
    後発部隊は母山城の北門を攻撃し奪還します

    ここで出てくる「三山」「道実郡」「乙尾峠」という地名もまた、用語集に載っていました。
    三山:日山・呉山・浮山の余餘三山を指す
    道実:現在の全羅北道淳昌郡
    乙尾峠 速含城と母山城の間にある峠

    余餘三山のうち、日山はわからないのですが、呉山と浮山は現在の扶余に比定地があるらしいので、これをもとに、大まかな地図を作ってみました。
    母山城の戦い地図 1
    この地図を見ながらソルォンさんの作戦を考えてみましたが、百済は王が親征をしていて三山まで進軍し、さらに道実郡で百済の援軍が合流するとのことですが、その百済王の軍が進軍しようとしているのは、この地図から言うと速含城なのでしょうか。
    それにしても余餘三山ですが、百済の王宮から目と鼻の先なので、そこまで進軍っていう距離でもないですし、「母山県を基点に三山まで進軍を」っていう部分のつじつまが合わない気もします。

    そこでソルォンさんが作戦会議に使っていたジオラマです。
    5話 母山城奪還作戦ジオラマ 1
    もう一度映像を見返してみると、あれ?ソルォンさん、「三山まで進軍を」と言いながら駒をジオラマの「三年山城」のところへ移動させています。
    三年山城といえば、忠清北道報恩の昔の呼称で三山とも言いますが、もしかしてこの作戦中の三山はこの三年山城のことを指しているのではないでしょうか。
    地図にするとこんな感じです。
    母山城の戦い地図 2
    これだと百済王プヨ・ジャンの大軍が三山まで進軍し、道実郡で援軍と合流し、速含城を拠点に新羅の国境を犯そうとする道筋ならばイメージすることはできます。
    ただどちらにしても、ジオラマと地図にあてはめてみた道実郡とそれぞれの城の位置関係が合致しないのですっきりしません。

    しかもこのジオラマ…!
    5話 母山城奪還作戦ジオラマ 2
    文字が見える範囲で地名を書き入れてみました。
    『三国史記 雑誌』の地理の項目を参考にすると、その地名は以下の現在地に比定されています。
    北漢山州:ソウル
    大伽耶:慶尚北道高霊郡
    茂山県:全羅北道茂朱郡茂豊面
    南川停:京畿道利川市
    冠文県:慶尚北道聞慶市

    ・・・いくら当時に正確な地図がなかろうとも(ムンノの三韓地勢も書き上げられてなかったですし)、位置関係がバラバラすぎやしないでしょうか。
    私が文字を読み違えているのか、同名で別の地の地名があったのか…。う~ん、う~ん…すっきりしないまま次回に続きますw
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