ドラマ「善徳女王」のファンブログです

    瞻星台 ☆ トンマンの理想へのはじめのいっぽ 
    大陵苑を出て1分も歩くか歩かないかのところで見えてきました!
    瞻星台 柵外
    瞻 星 台 チョムソンデだぁ~v
    柵の外からも十分見えますが、愛しの君を少しでも近くで見たいということで、入場料を払って中に入りました。入場料500ウォン。500エンと間違えそうになりますが、500ウォン。日本円に換算すると約35円って、そんな金額でこんなに興奮させてもらっていいのでしょうか?(笑)

    瞻星台に駆け寄る前に、ドラマの中の瞻星台の復習を。
    29話、トンマンが公主に復権して一番最初にとりかかる初仕事を会議で伝えます。

    「神国の天神の王女トンマンは本日より上天官を廃し、天文に関する情報をすべて民へ公開することにします。
    徐羅伐の地に、天文観測の基準点であり、民が閲覧できる暦本を天文台として建設いたします。その名は瞻星台です。」

    29話 瞻星台

    基壇にある12の石材は1年のうちの12ヶ月を指します
    円筒部の石材の数は365 上部にある井桁型の石は1日の4分の1を意味する これらは1年の日数を示すものです
    次に基壇から中央窓までの石段の数は12 窓から井桁型の石までも同じく12 この24段は二十四節気を指します
    井桁型の石と円筒部の階数は全部で28段 これは星座の二十八宿を意味します
    (ウォルチョン大師)

    「これで新羅の民は皆天候の変化を把握できます。天文を独占してきた神殿とその他のどんな者も、民の無知を利用して私腹を肥やせなくなります。」

    民を国の根幹とする政策をとるトンマンのはじめの一歩となる事業ですね。

    せっかくウォルチョン大師が説明してくださったので、それを図にしてみました。

    瞻星台 図

    白い文字はドラマで出てきたもので、ピンクの字はその他の諸説で聞いたことがあるものです。
    石の総数は、ドラマに出てきた365個という数の他に、361.5個または362個としている文献が多いです。361.5個もしくは362個とするのは旧暦の1年からきているようですが、思うに本当は361.5個(362個)だけれども、ドラマでは1年の日数を説明するのに現代の太陽暦の365日の方がわかりやすいのでそうしたのでしょうね、たぶん。だって、当時は旧暦のはずですもの。念のため韓国語音声と韓国語字幕のほうでも確認してみましたが、やっぱり365個でした。
    自分で実際に数えて確かめてみるのが一番なんですけどね…無理!(爆)

    ドラマ中のトンマンが説明に使っている絵の中に「二十四節気」と「二十八宿」も瞻星台の絵と共に書いてありますが、私にはよくわからなかったので調べてみました。 

    *「二十四節気」は、太陰暦を使用していた時代に、季節を現すための工夫として考え出されたもので、一年を二十四に等分し、その区切りと区切られた期間とにつけられた名前だそうです。

    立春 雨水 啓蟄 春分 清明 穀雨 立夏 小満 芒種 夏至 小暑 大暑
    立秋 処暑 白露 秋分 寒露 霜降 立冬 小雪 大雪 冬至 小寒 大寒

    立春や冬至など現代でも身近に使われている言葉がありますが、毎年同じ時期に同じ節気がくることや節気の感覚が約15日で一定しており、半月ごとの季節変化に対応出来ることなどから、農業の目安としては非常に便利なものであるようです。

    *「二十八宿」は、天球における天の赤道を、28のエリア(星宿)に不均等分割したもので、またその区分の基準となった28の星座のことをいいます。二十八宿の星座は4つの方角の七宿ごとにまとめられ、その繋げられた形は4つの聖獣の姿に見たてられ、東方青龍・北方玄武・西方白虎・南方朱雀の四神に分けられたそうで。

    東方青龍―角宿 亢宿 氐宿 房宿 心宿 尾宿 箕宿
    北方玄武―斗宿 牛宿 女宿 虚宿 危宿 室宿 壁宿
    西方白虎―奎宿 婁宿 胃宿 昴宿 畢宿 觜宿 参宿
    南方朱雀―井宿 鬼宿 柳宿 星宿 張宿 翼宿 軫宿

    昔の天文学の基本となっており、またこの宿によって何かを行う時の吉日を決めたようですが、瞻星台の地鎮祭もこれに従ったのでしょうかね、やっぱり。角宿とか井宿とか二十八宿中最大の吉運の日という鬼宿とか。


    さて、一番上部の井桁の部分の面は東西南北にそれぞれきっちり向いているそうです。
    ということで、近づいていってそれぞれの面から見てみましょう。

    ● 南
    瞻星台 南
    出入り口の面が真南を向いています。

    ● 東
    瞻星台 東
    南の位置から反時計回りに周ると東面。
    右に傾いているのがおわかりでしょうか?

    ● 北
    瞻星台 北
    南面の入り口のある方が正面とするならば、こちらがお尻になります。
    向かって右側でたむろしている男子学生達。修学旅行生なのか強制的に連れてこられた風で瞻星台には興味ない感じで。どこの国でも同じですね(笑)
    瞻星台の大きさを伝えるのにこの男子学生に役立ってもらいますw

    ● 西
    瞻星台 西
    ちょうど太陽の方向が、南東の方にある時間帯だったので、逆光で瞻星台が暗くなってしまいました。
    周りに何も無く、日中は太陽の動きで影が動き、日時計のように1日の時を知るめやすにもなりそうです。

    ドラマ中でピダムが瞻星台のことを、
    「王や神官だけでなく、種をまき、作物を育て、収穫する民にも天候や二十四節気や四季について学ばせるそうです。そのために瞻星台なるものを建てると。羊皮紙や紙でできた暦本ではなく、それ自体が暦の一部である建物です。」とムンノに説明しています。
    瞻星台は天文台ではなく、宗教的象徴物・祭壇などの説もありますが、やはり天文を観測しそれ自体が暦の一部となった建物とみたほうが心躍りますよね。

    次回は、瞻星台の内部へGO~!の巻ですv

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    瞻星台 ☆ 内部へ潜入!
    えーと、すみません。前回「次回は、瞻星台の内部へGO~!の巻」と書きましたが、実際には中には入ることができないんです(わかってるってw)。

    なので資料館にあった模型や説明図で、瞻星台の中をのぞいてみましょう!
    まずは、これは後日に行った「新羅歴史科学館」にあった模型です。ええ、旅の帰着報告記事でちょっとお話させていただいた時に出てきた、山を徒歩越えして行った例の場所ですw

    瞻星台模型 外観
    南面に向いている四角い出入り口の窓に梯子をかけてのぼります。出入り口のサイズは1m四方といいますから、十分成人男性でも入れる大きさです。

    瞻星台模型 内部
    瞻星台断面図なんですが…私これを見るまでずっと瞻星台の使用法について勘違いしておりました(汗)。
    中は空洞だと思ってたので、梯子かけて窓から入り、そしてまた梯子を使って内側に降り、巨大望遠鏡の筒を立てたようなものの中から上を仰ぎみて星を観察すると思ってたんですよ(爆)
    ここの模型を見て目からウロコでした。出入り口の高さまで土等で内部は埋まっていたんですね!そしてそこから内部に梯子をたてて上までのぼって星を観測するというスタイルだったんですねー。いや、普通にそう考える方が自然ですよね(笑)

    瞻星台の外観を見た時に出入り口の窓から4段目と10段目、11段目に突起があってこれなんだろう?と思ってたのですが、
    瞻星台 突起
    その部分に井桁が組まれ、その一部が外に露出しているのだとこの模型の断面図を見てわかりました。そこに梯子を立て掛けて上へのぼって行き、最上部では井桁の上に床を敷いているようです。

    上部想像図
    何を持ってどのように星を観測したのだろうか?という想像図。
    (1)立って万筒を持って…
    (2)横になって松のさお(?)を持って…
    (3)座って渾天儀を持って…
    (4)座って点版(天盤?)を持って…
    辞書を使って訳してみましたが、すらすら訳せる方がいらっしゃいましたら教えてください(笑)
    まぁだいたいの雰囲気は絵で伝わりますが。

    瞻星台上段部アップ
    これは瞻星台の横にあった小さな小さな展示小屋にあった、瞻星台の上段部の写真です。展示小屋の床に埋め込まれた感じになっていたので、瞻星台の上に立っている気分になれます。ホントか!?笑
    上層部の直径は2.5mということから、一緒に写ってしまった小学生ぐらいの女の子の足の大きさから推定しても、実物はこの2倍位の大きさがあるのではないかと。それなら男女2人が十分に座れるだけの広さはありますね!(←って一体何を妄想しているんだかw)

    そして数字に弱い私、瞻星台の大きさをまたまた図にしてみました。
    瞻星台サイズ
    ネット記事や書物など書いてあるものによって微妙に数字が違ったり、どこからどこまでの部分のサイズといったあたりが曖昧なものもあったりなんですが、だいたいこんな感じかとまとめてみました。だいたいの雰囲気をつかんでいただければと。
    材質は花崗岩で1辺厚さ30㎝ほどに加工しているとか。

    瞻星台設計図
    またまた「新羅歴史科学館」に戻りますが、そこにあった説明パネルの中から、側面図・底部平面図・上から見た平面図です。私は数学も建築的なこともよくわかりませんが、この図を見るとあのなめらかな曲線ボディがとても緻密な計算を元に作られたものであるのだろうということは私にもよくわかります。

    瞻星台内部から外を見る
    これも同じく「新羅歴史科学館」の写真パネルの中にあった、瞻星台の中から見た外の風景です。高い位置にこのパネルがあったので望遠でしかも暗かったので明るさ補正しているので、ぼんやりした感じになってしまいました。
    この出入り口の窓は南方向、月城のほうを向いているのですが、うっすらとした森が鶏林でその奥が月城であると思われます。
    この窓ですが「きちんと真南にあるため、春分と秋分の時には窓からの光が塔の底までを照らし、夏至と冬至には塔の下の部分から日の光が完全に消える、という計算の元に作られていて、それによって春夏秋冬を分けていた。」という記述をあちこちでみかけました。
    が、私にはそれがよく理解できなくってですね(^^;
    春分・秋分と夏至と冬至では太陽の高さが違うのでそれによって窓からの光の入り方が違うというのはわかるんですが、「夏至と冬至には塔の下の部分から日の光が完全に消える」というのが夏至は太陽の位置が高すぎて、冬至は太陽の位置が低すぎて、この窓の高さからは日の光が入らないということなんでしょうか?そもそも窓の高さまで内部は土で埋まっているらしいのに「塔の底」や「塔の下の部分」というのがどこを指すのか?
    どなたかお分かりになる方、お馬鹿な私に教えてくださーい。
    そういえば、瞻星台の工作キットを買ってきてまだ組み立てていないんですが、もし作ったらそれで電球用意して実験してみれば意味がわかるのかも。小学校の理科の実験みたいですね(爆)ただ、手先があまり器用ではなく忍耐力もない私なので、工作キットを組み立てるということに時間がかかりそうです…w

    あ、最後に瞻星台は国宝31号です!(←国宝という肩書に弱い私)

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    道路脇に咲く花
    善徳関係のブログさんのところにちょいちょい訪問させていただいていますが、そこに庭や野に咲く綺麗なお花などの写真を載せていらっしゃる方が結構いらっしゃって、まだこちらが温かくない時期から楽しませていただいておりました。
    この場からで申し訳ありませんが、どうもありがとうございましたv
    そのせいか、今までは野に咲く花など特に興味を持つこともなくじっくり見ることもなかったんですが、ちょっと目を向けてみれば、通勤路の道路脇にさまざまな花が咲いていることに気付きました。

    そして、今気になっているのがこのお花です。

    謎の花

    このお花の名前、なんていうんでしょうか?
    花弁がギャザーがよっているような感じで、スカートをひるがえしたみたいでとてもかわいいんです。

    そしてこのお花を見るたびに、思い出さずにはいられないこんな陛下のお姿。

    笠トンマン

    なんでか、笠にベールを下げたこのお忍び陛下が思い出されまして…

    微笑みトンマン

    お花に会うたびに、「陛下、おはようございますv」とつぶやいてしまう私です(笑)

    そしてこんなのもありました。

    あやめ

    さすがにこれは私もあやめ(もっと詳しい品種があるのかもしれませんが)というのはわかりますが、この花を見る度に思い出さずにはいられないこの人(達)。

    甥と叔父さん

    上大等ピダムの衣に見えるんですよねー。や、ミセンとかヨンチュンとかソヒョンとか、さらにウルチェとか、大等なら皆同じ衣だろというのはおいといて。
    なんでしょ、紫色なら、他にもすみれとか、藤とかライラックとか見るんですけど、上大等ピダムを思い出すのはあやめだけなんですよね。花弁が垂れ下がってる部分が袖に見えるからなのか、己のことながら謎ですが。
    そして色合いなら、後ろに控えている女官の衣装の方が近いだろというツッコミもなしで(爆)

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    師匠という名の父
    ほんとうに息をひきとる直前、やっとムンノはピダムの心根を知りました。
    でもピダムに一緒に徐羅伐を離れて修行をし直すと言っておきながら、ピダムを後継者として花郎とする書状を胸に持っていたところをみると、ムンノも迷いながらも本人の望むようにピダムを花郎にしてトンマンに仕えさせることも念頭に置いていたのでしょうね。
    そう考えると、もしあそこでムンノとピダムが戦わなければ…、もう少し早くピダムの本心をムンノが知ることができたら…、もしかしたらピダムの立派な花郎姿をムンノが見ることができたかもしれないですよね。見せてあげたかった、そして見てもらいたかったです。

    師匠という名の父

    父の日によせて


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    金氏始祖伝説の残る場所 鶏林
    瞻星台には「また夜に来るからね♪」と別れを告げ、瞻星台入口前にある方位看板にしたがって道を進みます。

    距離看板

    そう、次の目的地は「鶏林」。金氏の始祖伝説の残る場所です。

    鶏林

    こうして遠くから見るとただの森なんですが、鶏林は新羅の国号として使われることもあります。

    4話 大陸の果てにある鶏林

    ドラマでもトンマンの生まれ故郷、自分が何者であるか手がかりのある土地の名称として使われていましたね。“鶏”林ってだけで、ピダムを想像しちゃいますがw

    森の中には、塀にしっかり囲まれた何やらの碑閣があります。

    鶏林 碑閣

    朝鮮時代の純祖3(1803)年に建てられたもので、金閼智生誕にまつわる記録が書いてあるそうで。その内容はこんな感じです。

    金氏の始祖伝説
    西暦65(第4代脱解王9)年、瓠公(ホゴン)が夜に月城の西里をとおっていると、大きい光が始林の中からさすのを見た。紫色の雲が空から地面に垂れさがっており、雲の中に黄金の櫃が木の枝に掛っていて、光がそこから発し、また白い鶏が木の下で鳴いていたので、このことを王に申しあげた。王がその林にお出ましになり櫃をあけて見ると、中にひとりの男の子が横になっていた。王はその男の子に名前を閼智(アルチ)と名付け、また金の櫃から生まれたとして「金」の苗字を与えた。これが後に代々新羅の王位を継ぐ金氏の始まりとなる。その後、始林と呼ばれていたこの場所は木の下で鶏が鳴いていたことから鶏林と呼ばれるようになった。

    この鶏林にはたくさんの木があって、どの木に金の櫃がかかっていたのかはわかりませんが(そもそも説話だからどこまで本当かっていうのも…←それを言っちゃ元も子もないw)、こんな木もありました。

    鶏林 古木

    かなり老朽化している古木で近寄れないようになっていましたが、なんとなく神秘的に見えて、もしかしたらこういう木の枝に金の櫃が引っ掛かっていて、金氏のご先祖様(トンマンのご先祖様♪)が現れたのかもしれません。
    あ、この写真今気付きましたが、この古木と後ろの木の隙間に瞻星台がぴったり納まってる~!偶然の産物がちょっと嬉しいです♪(携帯からだと見えないかもですみません)

    敷地内には「郷歌碑」という碑も立っていました。

    鶏林 郷歌碑

    でもこれ、地図とかには郷歌碑と書いてあって森の中での位置特定の目印にもなったんですが、観光ガイドブックや慶州の歴史の本とかにも特に何もふれていなくてなんの碑だか行くまではわからなかったんです。
    でも実物をみて、「讃耆婆郎歌 忠談師作」「一然の三国遺事」と碑文にあったので、『三国遺事』を見てみました。

    郷歌(ヒャンカ)とは新羅の詩歌であり、この郷歌はその中でも忠談という人がその師匠である耆婆(キボ)郎という人を讃えて作った歌でその内容は、『完訳 三国遺事』によるとこうです。

    耆婆郎を讃える
    仰ぎ見れば、円やかなる彼の月、白雲追いて行くにはあらじ。
    水青き川辺に、耆婆の面影宿せり。
    イロ川のがけに、郎よ、御心の端を追わんとするなり。
    ああ、栢の枝高く、霜を知らぬ花主よ。

    その作者の忠談という人の記述も、『三国遺事 景徳王 忠談師 表訓大徳』にありました。

    景徳王(新羅第35代 在位742~765)は臣下達に「立派に装った威厳のある僧をつれてこれないか」と命じ、やってきたのが耆婆郎徒の忠談だった。慶州南山の三華嶺の弥勒世尊にお茶を煎じて供養してから帰ってくる忠談を景徳王はよろこばしく迎えて、忠談が背負っていた筒を開けてみると茶具が入っていた。王が「私にもお茶を一杯くれないか」というと忠談は直ちに茶を煎じてささげたが、茶の味が変わっており、茶器からは芳しい香りが漂ってきた。 王が「師の耆婆郎をほめ讃えた郷歌の歌意がすこぶる高尚だといっているが、はたしてそうか」と聞くと、忠談は「さようでございます」と答えた。「それならば私のために民を安ずる歌を作ってくれ」と王がいうと、忠談はただちに命に応じ歌を作ってさしあげた。王はこれを高く評価して忠談を王師に封じようとしたが、忠談は再拝して辞しながら授けなかったという。

    韓国の茶道が新羅の花郎によって始まったともいえる記述だそうですが、善徳女王の治世に唐より茶が持たらされたとも聞きます。
    三品章英氏著『新羅花郎の研究』では「花郎茶道」のような儀礼が存在していたともあり、善徳女王の治世に持たされた茶でそののちも花郎茶道という形で花郎の風流や作法、精神哲学が伝わっていったのでしょうか。 時代がさがるにつれ花郎という組織は形骸化しますが、こういう形でも花郎の足跡は残されていった…と思うとときめきます(笑)


    さて、森の奥にさらに足を進めると、見えてきました、またまた古墳。

    鶏林 奈勿王陵

    奈勿王陵
    奈勿王は新羅第17代王(在位 356~402)で、金氏としては味鄒王につぐ2番目の王であり、それ以降は統一新羅時代末期に一時朴氏の王に王位を譲るまで、金氏の子孫が王位を引き続きます。
    いつものように数えると、トンマンのおじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃんですね。たまにはドラマのピダムからも数えてみると、ピダムのおじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃん(またはおばあちゃん?)のお父さんです(笑)
    ここに立っていた説明書きによると、奈勿王は中国より文物を受け入れ、また数回に渡って倭寇の侵入を撃退するなど外交と国防につとめ、古代国家としての体制を確立した王であったようです。

    鶏林 奈勿王陵と瞻星台

    奈勿王陵の向こう側に瞻星台が見えます。『三国遺事 王暦』に「陵は占星台の西南がわにある」とありますが、字が違いますが占星台を瞻星台とすると、記述どおり西南にあることになります。

    そして私はこの森をしばし彷徨うこととなります…サダハムの木を探して。
    (出発前にサダハムの木は鶏林のところにあると書いてあった情報を鵜呑みにして、ずっとここばかり探しておりました。。。)
    さて、私はサダハムの木に会えるのでしょうか!?笑

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