ドラマ「善徳女王」のファンブログです

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    がんばれシルラ!
    暑中お見舞い申しあげます

    今日から8月ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか?ニュースでは平熱よりも高く、私の半身浴のお風呂のお湯の温度と同じ位の気温になっている地域もあるようでめちゃくちゃびっくりしましたが、まだまだ暑い日が続くということで、皆様くれぐれも無理のないようご自愛くださいませ。

    こちら北の地では真夏日が5日続いた(こちらにしてはすごいんです)と思ったら、8月になった途端に気温も下がってしまい、このまま夏終了へ向かうのか…?と言う感じです。家にクーラーも扇風機もないと言ったら驚かれてしまいましたが(笑)、北の地の夏は短いので今年もそれで十分乗り越えられそうです。でも、北の地と言ってもそこは個人差があって皆が皆そうではないと思うので、マネをしないように無理をせずに。

    そしてただ今オリンピック開催中ですが、寝不足という方もいらっしゃるのでは?
    え?私ですか?
    もちろん自国の応援はしていますが、結果を朝の情報番組で見る位なんですよねー。熱くなくてすみません…。でも努力の成果が出て喜んでる方のインタビューとかはHappyが伝わってくるので、見ていてやっぱり嬉しくなりますね。

    さて、オリンピックといえばスポーツを通した平和の祭典であります。
    もし、新羅が百済や高句麗らと血で血を洗うような戦いではなく、何かの競技でもって国と国のメンツをかけて戦っていたとしたら。
    なんだろ?当たり前に武術比才とか、馬術とか、砂袋つけて走るマラソンとか? あと、子ども花郎たちが羽蹴りをやってるシーンもドラマ中にあったりしましたが。
    こんな風に新羅が皆で一丸となったら、負ける気が決してしません。←え?百済の赤兜がだまっちゃいないって?w

    がんばれシルラ!

    何かの勧誘ポスター風な仕上がりになってしまいました(笑)

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    新羅関連番組のご紹介 【大幅に追記あり】
    本日8月4日16:00~16:55にBS朝日にて『アジア神秘紀行』石と黄金の新羅千年王朝~韓国・慶州~という番組の再放送があります。
    天馬塚の内部が見れますので、もし前回ご覧になってない方がいらっしゃいましたらご覧になってみてください(^○^)

    私この新羅の回来週の放送だと思っててその前に話題にしようと思ってたんですが、「新羅」とキーワード予約を入れているうちの賢いレコーダーが、本日放送で自動予約入れたと言っております(笑)

    とりあえず今日は早朝から出掛けなくてはいけないので、あらためて追記します。
    とりあえずのお知らせでした☆




    【2012.08.06. 20:00 追記】

    非常に中途半端に書き残したまま放置してすみませーん。
    週末はびっちり、短い夏を満喫しておりました。満喫とはいってもあまりもう夏を感じられずすでに朝夕は長袖必須なんですが、なんじゃ今年は?

    さて上述の『アジア神秘紀行』石と黄金の新羅千年王朝~韓国・慶州~ですが、本放送は昨年2011年7月22日でした。
    放送当時録画したものを見て、わー瞻星台だぁー、とかわー金の冠帽すごーいとかは思ったのは覚えていますが、きっと何かしながらかもしくはぼーっとしていたんでしょうかね。瞻星台ではしごで天井に上り天体観測をしていたとか、天馬塚の内部にカメラが入り積石木槨墓の断面を紹介していたことに気付いたのは先月もう一度見返した時にはじめて気付いたっちゅー(爆)せっかく慶州に旅行に行く前に参考になりそうな内容をやっていたのに、見ていたつもりにもかかわらず帰ってきたら知るという、相変わらず抜けてる私です・・・w

    さて番組の内容は、仏国寺・石窟庵、瞻星台、南山の石仏、天馬塚の内部、そして国立慶州博物館所蔵の天馬塚から出土した金製冠帽の列点文(……という模様)や金製冠飾の瓔珞(ハート型みたいな飾り)という非常に繊細なつくりが紹介されていました。また金製品の工芸家の方が天馬塚金冠のレプリカを作っている作業風景なども紹介されていました。
    天馬塚、そして金製冠帽については、過去記事「トンマンのご先祖様!? 大陵苑 前編 【訂正あり】」、天馬塚金冠のレプリカについては、過去記事「I love Museum shop 」にてほんのちょっとだけふれております。
    番組では遺物以外にも、ひとりひとりの体調にあわせたオーダーメイドの調剤をする伝統医療の韓方や、伝統的な手縫いの技法であるヌビの作家である韓国重要無形文化財の方も紹介されておりました。

    ヌビ、ヌビ・・・どこかで聞いたことがあるぞと思ったらそういえば…コメント欄熟読友の会wの方なら記憶にあると思いますが、父の日記事にてピダムの花郎服ムンノの手縫いだったらどうしよ!?な話をりばさんがコメントしてくださった時に出てきたあれですね!そーか、そーか、これかー。うん、確かに花郎の修行で培った集中力と愛をこめてこうして一針一針縫っていたら…泣けますw(←なぜにw)



    そして天馬塚の金冠の話が出たところで、ここで過去記事の訂正のお知らせを。今ひっそりと訂正している状態なので、コメント欄までお読みいただいている方しか気づいていただけないと思うので。
    過去記事「トンマンのご先祖様!? 大陵苑 前編 【訂正あり】」 で、金冠のイメージを覆すようなとっても地味で輝きが無く、またくしゃっとまがってるような写真を???付きながらも載せていたんですが、げんさんのクチコミにより金銅冠では?説が急上昇しまして。
    あ、やっぱり?みたいにすぐに納得してしまったんで、記事にも訂正を入れております。
    あやふやな写真を載せてすみませんでしたー。そしてげんさんありがとうございましたv



    で新羅関連番組でもうひとつ、うちの賢い(笑)レコーダーちゃんが『NHK高校講座 世界史「古代・中世の朝鮮半島」』という番組も先月自動録画していました。

    4世紀~14世紀の朝鮮半島の歴史と仏教の関わりについて、絵や写真などを使いながらわかりやすく説明してくれる番組だったのですが、その中で京都の広隆寺にある国宝第一号「木造弥勒菩薩半跏像」とソウルの国立中央博物館にある「金銅弥勒菩薩半跏思惟像」のふたつの仏像はとてもよく似ていますがなぜ似ているのか?ということを歴史の中からみてみるというコーナーがありまして、以下番組ナレーションより↓

    朝鮮半島で半跏思惟像が造られたのは6~7世紀三国の戦乱が続く時代でした。
    当時の新羅には花郎という美貌の青年集団がありました。
    青年たちは軍の主力部隊となり朝鮮半島の統一を目指して活躍しました。
    彼らは自分達を万民を救おうと修行する弥勒菩薩に重ね合わせたとも言われています。
    彼らの活躍とともに弥勒菩薩像が次々と造られたのです。
    日本に仏教が伝わったのは、まさに朝鮮半島で弥勒信仰がブームだった頃でした。
    当時の日本でも聖徳太子が仏教の力で国をまとめようとしていました。
    平和な国づくりへの思いを弥勒菩薩像に重ねました。
    日本の最初の仏像は朝鮮半島から贈られたものでした。
    その後日本の仏師は朝鮮半島の技術を学び少しずつ独自の仏像を造るようになっていきます。
    今私達が見ている仏像の微笑みは、1400年前の日本と朝鮮半島の人々の交流が生んだものなんですね。

    そのナレーションの中で「花郎という美貌の青年集団」というバックに出てきた映像がこれ↓

    NHK高校講座「世界史」花郎

    うぉーーーっ!子ポジョンと、子アルチョンと、子イムジョン他もろもろじゃないですかーーー!
    ちなみに背中は子ユシンですね。

    アクロバティックな花郎の技などのシーンと合わせてドラマの映像が使われたのはほんの数秒でしたが、まさかこんなところで「善徳女王」が出てくるとは思いませんでした(笑)



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    新羅最大の寺 皇龍寺 
    陛下に泣く泣く別れを告げて「善徳女王陵」をあとにし、次に目指すは「皇龍寺址」。
    ・・・なんですが、この時点で13時頃。太陽はてっぺんまでのぼっており、春といえども暑くて暑くて、水、水をくれ~状態なんですが、道中コンビニもなければ自動販売機もない。このままだだっぴろい何もない「皇龍寺址」へ行くのは丸腰でタクラマカン砂漠を横断するのと同じ位危険ということで、先に「慶州博物館」方面へ。そこまで行けば何かあるだろうと思ったんですが、駐車場にてワゴンだしてるおっちゃん発見。氷水に入れてキンキンに冷えたドリンク類を売っておりました。まさにそこは砂漠の中のオアシス。

    生き返ったところで、目的地「皇龍寺址」へ向かいます。
    今まではちゃんと国道に歩道があってそこを走っていたので危険もありませんでしたが、ここからは歩道も無い片側一車線の道でした。容赦なくトラックや大型バスなど走ってるので怖かったです(((゚Д゚)))
    そして3分ほど走ってたどり着いたのがココ。
    皇龍寺 入口
    「皇龍寺址」入口です。看板には“世界文化遺産”と書いてあります。
    ここ慶州には「仏国寺・石窟庵」と「慶州歴史地区」というふたつの世界文化遺産があります。ざっくり「慶州歴史地区」という名前で登録されたのは、慶州全体に遺跡が数多く残っておりありすぎて一つ一つを申請することが出来ず地域一帯でまとめて登録されたということで、「慶州歴史地区」は南山地区、月城地区、大陵苑地区、皇龍寺地区、明活山城地区の5地区に分けられており、この皇龍寺址は芬皇寺とともに、皇龍寺地区に区分されています。

    そういえば、「善徳女王公式ノベライゼーション」ではミシルの私邸は皇龍寺のあたりと書いてあったんですが、このあたりに大きな邸宅があって郎徒トンマンを軟禁したのね!とか妄想を膨らませつつ、中に進みます。

    皇龍寺 石碑

    皇龍寺は新羅最大の寺院であり、『三国史記』や『寺記』によると真興王14(553)年2月、王は担当の役所に命じて新しい宮殿を月城の東に建築しようとしたが、黄色い龍がその地に現れたので王はあらためて仏寺にすることにして名前を皇(黄)龍寺と名付け、真興王27(566)年2月に竣工したということです。
    しかし完全にその時にできあがったわけではなく、真興王35(574)年3月に本尊である丈六の仏像の鋳造を完成し、真平王6(584)年に金堂が、そして善徳王14(645)年に九重木塔が完成するまでには4代の王90余年の歳月がかかりました。
    その後景徳王13(754)年に大鐘を鋳成したり、度重なる雷火による被災と再建を繰り返したりしながら、高麗王朝1238年に蒙古の襲来にあって灰と帰するまで新羅最大の寺として存続したということです。

    その新羅最大の寺という規模をあらわすのが、国立慶州博物館にあった皇龍寺の模型です。
    皇龍寺 模型
    サイズ的には1/60スケールということです。って言われても大きさが伝わらないですよねー(笑)

    皇龍寺 伽藍配置図
    現地にあった伽藍配置図で、一塔三金堂式の伽藍配置だったようです。
    この図は最終的な配置で、善徳女王が木塔を建立した時にはまだ、経楼も鐘楼もありませんでした。

    模型の写真の左側の矢印のあたりが、模型のひとつ前の写真「皇龍寺」と書かれた石碑のあるあたりで、そこから矢印の方向へ進みます。道はちょうど金堂址と木塔址の間に続いています。

    皇龍寺 全景1
    ぽつぽつ見える石は回廊址の礎石です。写真を拡大すると奥に木塔址が、向かって右手には経楼址が見えます。

    皇龍寺 全景3
    進む道の左手側の西金堂址のあたりです。
    左奥の白い高層建物群が見える方面の前の森が、お隣の芬皇寺です。そのあたりまで皇龍寺の敷地は広がっています。
    全部を1枚の写真に収めきれなかったので広さがあまり伝わらないと思いますが、発掘された遺跡址から寺院の総面積は8,800坪に至るということで、東京ドームに換算すると0.6個分?・・・って広さを伝えたかったのにあまり広くない印象になっていまいました(爆)でも、ホントにとても広いんです。

    皇龍寺 金堂址
    とーってもわかり辛いと思いますが、金堂址を真正面の木塔址から眺めてみました。
    金堂の大きさは、東西55.3M×南北30.3Mで、伽藍の中では一番大きな建物になります。

    その金堂址の真ん中に、3つ大きな石が置いてあります。
    皇龍寺 丈六像台座
    これは本尊である丈六の仏像(釈迦三尊像)を安置した台座で、花崗岩の自然石の上面を平らにした後、丈六像の足をはめる穴をあけて固定していたということですが、丈六仏は釈迦の身長である4.85Mの高さがある仏像で、この台座の規模からも当時の仏像の大きさがよくわかります。

    ・・・というかすみませーん。これが仏像の台座だということは帰ってきてから知ったんです。知らずに疲れた母が腰かけて休憩を(汗)バチが当たりませんよーに。ま、人間の大きさとの比較でどれだけこの仏像が大きかったか伝われば幸いです。(←プラス思考すぎるw)

    『三国史記』にはこの丈六仏について、「真興王35(574)3月、皇龍寺の丈六の仏像の鋳造を完成し、銅の重さは三万五千七斤、金メッキの重さは一万百九十八分であった。真興王36(575)年春から夏にかけて日照りが続いた。皇龍寺の丈六の仏像が涙を流して踵まで達した。」と記述されています。
    また『三国遺事』には、「インドの阿育王が仏像建立を試みたがすべて失敗したので、銅や黄金、三尊の姿を描いた絵を船に載せ、縁のある国で仏像がつくられることを祈って海に浮かべた。この船が絲浦に来て停泊し、新羅ではその材料によって1回で仏像を完成させた。」ともあります。

    ん?この話どこかで聞いたような?
    59話にて、皇龍寺創建のエピソードと共に出てきましたね!

    屈阿火(クラファ)県の絲浦(サポ)の地方官から、“箱だけ積んだ船が屈阿火県に着いた”と上書がありました。
    ニセ阿育王の舟
    「チヌン大帝が黄龍寺を建立された時と同じですな」「これは慶事です」
    わざとらしく持ち上げる貴族たちでしたが、実はこれ、ミセン大先生お得意の計略で。

    ここからは、チュクパン、事情通の民の方、マンミョン夫人に説明してもらいましょう。
    チュクパン先生民のみなさんマンミョン先生
    つまり昔チヌン帝が宮殿をたてようとしたところ地面から黄色い龍が現れた
    それで宮殿ではなく寺を建てろという意味に解釈し建立されたのが黄龍寺だ
    当時新羅は仏教が公認されてわずか30年
    寺を建てるにも仏像を造るにも技術や見本、人手や鉄が足りない

    その時屈阿火(クラファ)県に船が到着したそうだ
    中は無人で箱と書簡がありそれは西天竺国の阿育王が800年前に送ったものだった
    もっと驚くことは箱の中には銅と黄金が山ほどあった
    そして仏像の見本図が入っていたそうだ
    阿育王は仏像を造らせたがどうしてもうまくいかずそれで海に流したとか

    船に載せて流したのですか?
    縁がある国に届けば見本どおりに丈六如来像が造られると思ったのね
    そして今 当時と同じく箱だけが港に?
    神国に大きな栄光が訪れる兆候でしょう

    そして箱が月城に届いたということで便殿会議が開かれ、箱と一緒に流れ着いた書簡が上大等ピダムに渡されます。
    西国呼世尊
    が、それには「西国呼世尊 神国呼帝尊」極楽浄土の仏の名を持つ者=毗曇が神国の王になるという意味の書状が。
    こうしてピダムの思いとは裏腹に、流れは反乱への道に向かって行ってしまうんですね。
    う、辛い…。

    なんか暗くなってしまいましたが、それを払拭すべく、陛下が関わった九重木塔へ続きます☆

    ※写真を選択いただくと拡大して見れるようになってます



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    ミセンと乾杯!
    暦も秋になりまして、残暑お見舞い申し上げます。
    8月は例年なにかと飲み会が多い月で例にたがわず、BBQ、友人の誕生会、帰省した友人との集まり、会社の期首会議打ち上げ、ん十年ぶりの高校の同窓会etc...と連日連夜飲み会がありましてさすがに身体が動かなくなってきたと思いつつ、お盆休みというものがない会社なので、今日も重い身体をずずずと引きずりつつ出勤してまいりました。
    いや、集いがあるからといって別にアルコール飲まなきゃここまで疲れないと思うんですが、やっぱ夏はビールがうまいんだもん!(爆)

    なもんで、私の脳みそも只今アルコール漬けになっているのかぜんぜんっ働きません・・・。
    皇龍寺の塔の記事も途中まで書いてはいるものの、なんだか文章がまとまりません。
    というわけで、急場しのぎにさくっと小ネタを。

    ドラマ中も宴会のシーンが出てきますが、そのシーンに出てくる食べ物が盛られている器。
    15話 新羅土器

    またまた、宴会に限らず部屋を灯す蝋燭台。
    14話 新羅土器

    これらの黒っぽい灰色の器はドラマ中たくさん登場しております。
    これは新羅土器というもので、慶州一帯を中心に紀元前1世紀頃から作られていたもので、日本の須恵器のルーツにもなったといいます。
    国立慶州博物館にもたくさん出土品が展示されておりました。

    13話 ミセンのぐいのみ

    ミセン氏も愛用のこのぐい呑み。
    私も同じものを買ってきちゃいました~v

    ぐい呑み

    正確には新羅土器のレプリカですが、道を尋ねるために入った陶器屋さんに5000ウォン≒350円で置いてありましたので即お買い上げ!

    今晩もこのぐい呑みでミセンさんと宴会予定です~(乱入大歓迎)w

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    天までとどけ 皇龍寺九重木塔 【追記あり】
    ドラマのオープニング、鳳凰が飛ぶ先に現れるふたつの建築物。
    オープニングの瞻星台と九重木塔
    「瞻星台」と「皇龍寺九重木塔」ですが、その共通点は善徳女王の治世に建てられたということ。
    今回は前回の皇龍寺の中の九重木塔にスポットを当てます。

    『三国遺事』によれば、唐に留学中の慈蔵の前に神人が現れて「皇龍寺に九重塔を建てれば隣国が降服し、九夷もきて朝貢し、王業が長らく太平になるであろう。」と言い、善徳王12(643)年に慈蔵は唐帝がくれた経像、袈裟、幣帛を持って帰国し、善徳王に九重塔の建立を勧めました。善徳王が郡臣たちに意見を聞くと「工匠を百済から求めてこそできましょう」というので宝帛を持って行って百済に頼み、百済から阿非知という工匠が命を受けて来、龍春が200人を率いて2年間かけて善徳王15(646)年九層木塔を完成させたということです。

    皇龍寺 塔跡
    前回とは逆に、金堂址から見た木塔址です。
    その基壇規模は一辺が28.9Mあり、塔の高さはほぼ80mに達したといいます。
    痕跡だけが残っていた皇龍寺は、1964年に塔基壇上の民家が撤去されて心礎が現れたことにより、あらためて注目されることになったそうです。

    塔の基壇の横には、百済からやってきた工匠の阿非知を讃える碑があります。この阿非知の存在は百済の建築技術が大変優秀であったことを示しています。なんかドラマの「薯童謠(ソドンヨ)」の技術者集団を思い出します。

    阿非知にはこんな話が残されています。
    「阿非知が皇龍寺の塔を建てるための基礎工事を進めたが、塔の柱を建てる当日百済が滅亡する夢を見た。それで阿非知は工事を中断しようとした。ところがその瞬間大地が揺れ周囲が暗くなっていくなか、年老いた僧と将一名が出現し、塔の柱を立てて消えた。阿非知はこれを天の意志だとし塔を完成させた。しかしその後660年に百済は実際に滅亡したため、阿非知の夢が実際のものとなった。」

    皇龍寺 碑裏面
    阿非知の碑の裏側には九重の木塔の想像図が描かれています。このような塔がこの基壇の上にどんと80Mの高さで建っていたんですね。

    九重塔にしたのは当時の新羅を取り囲む9つの外国(日本、中華、呉越、托羅、鷹遊、靺鞨、契丹、女真、穢貊)から国を守る意味が込められているといいます。

    慶州タワー
    そしてこれは、ここ皇龍寺ではなく普門地区にある慶州タワーですが、この塔の形でくりぬいた部分は皇龍寺九重木塔の等身大だそうで、周りの木々がミニチュアのように見えますが、普通の木です。た、高いですね~。この高さのものが周りになにもないあそこにどどーんと建っていたかと思うと圧倒されます。

    皇龍寺木塔 楚石
    塔址に戻りまして、建物の基礎部をあらわす直径1Mほどの礎石が縦横に並べて埋められています。本来各辺に8個ずつ計64個の柱礎石があったとされますが、現在残っているのは59個のみです。

    皇龍寺 心礎石
    その中央にはごろんと4.3M×3Mの大きな楕円形の石が置かれており、この石が九層木塔を支えた心礎石になります。この上に心柱を建て、巨大な九層の木塔を支えていました。

    皇龍寺 塔案内
    心礎石の上面中央には一辺が49㎝、深さ34.5㎝の二段からなる方形舎利孔があり、この周囲には排水溝がめぐらされています。
    ちなみに心礎石の上にある大きな石は、塔の廃絶時にかぶせた蓋石のようです。

    寺を建立する際、土地の気運を鎮めるため、金・銀・水晶・真珠・琥珀・瑪瑙などのいわゆる七宝に鏡・刀など鬼神を退けるのに効果的であると考えられた物を埋めますが、この心礎石の下からも地鎮具が出土しました。
    発掘調査の結果、木塔址の心礎石と下部は最初に心礎石が設置されて以降手をつけられていないことが確認され、地鎮具が塔を最初に建てた時以前の遺物であることが明らかになりました。

    ここから発掘されたものは、国立慶州博物館にて展示されていました。
    もしかして陛下が自ら手にとって吟味した品かも!?なんて思ったら、めちゃくちゃときめいて興奮します(笑)
    珠と盒
    「金製盒」「銀製盒」 九層木塔 心礎石 舎利孔 内 出土 新羅646年
    「珠」 九層木塔 心礎石 下 出土 新羅646年

    大部分のものは心礎石の下から発掘されましたが、金製の盒(ふたつきの容器)と銀製の盒は上記の心礎石の図にある方形舎利孔から発掘されました。

    地鎮具
    「各種地鎮具」「皇龍寺木塔地鎮具」 九層木塔 心礎石 下 出土 新羅646年

    水晶
    「水晶」 九層木塔 心礎石 下 出土 新羅646年

    珠・曲玉
    「珠」「曲玉」 九層木塔 心礎石 下 出土 新羅646年

    耳飾・珠
    「金銅耳飾」「珠」 九層木塔 心礎石 下 出土 新羅646年

    銅鏡
    「銅鏡」 九層木塔 心礎石 下 出土 新羅646年

    善徳女王が皇龍寺に塔を建ててから23年後の676年、新羅は三国統一し、このことから多くの人々が「新羅の三国統一はこの塔の霊験である」と言ったといいます。
    ドラマでは全く触れられなかった女王時代の仏教政策ですが、仏教政策にて民を教化し、戒律を通して人々の行動基準の倫理意識を起こさせる。それによって国を護り、人々の安寧のために三国を統一して戦いを終結する。そのような願いがこの木塔に込められていたのかもしれません。
    なーんてこの塔址やその下に納められた遺物を眺めながら、陛下の胸のうちに思いを馳せるのも楽しいですね。

    ※写真を選択いただくと拡大して見れるようになってます

    【2012.08.21.追記】
    『三国史記』に「善徳王5(636)年3月、王が病にかかり、医薬も祈祷も効き目がなかった。皇龍寺に百高座を設けて、僧たちを集めて仁王経を講じ、百名のものが僧になるのを許した。」とありました。
    百高座とは百座講会のことで、100人の僧が一斉に護国経典である仁王経を読誦して祈願するというもので、新羅をとおして9回ほど色々な祈願が行われていますが、この時は王の病の治癒祈願が行われました。
    このような国をあげた大規模な祈願が行われていることから、皇龍寺は新羅の中で最も重要な官寺であったということがわかります。
    医薬が効かないなんてなんの病気かわかりませんが、ちなみに5月にはあの玉門池のカエルの話(ウィキにあるユシン・ピダムのムラムラ伝説w)が載っているので、仏の御加護かそれまでには治ったようですね。


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