ドラマ「善徳女王」のファンブログです

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    キム・チュンチュこと太宗武烈王の陵
    〈2012年5月の慶州旅行の記事です〉

    ユシン将軍の墓から南下して3km弱自転車を漕いで、次はチュンチュの陵へ向かいます。
    ユシン将軍墓のある方面の道路は、歩道がちゃんとあり広くとても整備された道路で自転車も走りやすく、ううっ!ここにもユシンびいきが(←単なる私のねたみですw)なんて思いましたが、キム・チュンチュこと太宗武烈王陵の方面へは途中まではサイクリングロードがあったんですが、田舎道にどんどんなっていくせいか途中から歩道もなくなる始末で、横を大型トラックがびゅんびゅん走ってたりして、また風もこのあたり強かったので煽られそうで怖かったです(> <)

    そんなこんなでたどり着いた太宗武烈王陵、入場料の500ウォンを払って中に入ります。
    料金所の横に、「新羅 武烈王陵」という説明看板が他の史跡と同じように立っていました。説明は韓国語・中国語・英語・日本語の4カ国語で書かれているんですが、なぜか日本語のものだけ最後に小さく、「これら古墳のなかで大抵封墳(盛り土して作った墓)が大きいものは積石木槨墓であり、小さいものは石室墳と竪穴式墳である。1984年の新羅古墳の整備・保存事業の一環として、民家を移転して現在のような形にした。」と書いてあって、情報が多かったんですよね。なぜ日本語だけ?
    その意図はわかりませんが、そのおかげでこのように門と塀で囲って王陵として整備されたのは1984年のことで、それまでは墳墓の隣で人々が普通に生活をしていたんだなとか想像できて面白かったです。

    太宗武烈王陵 建武門
    入口の門から入る前に、太宗武烈王の陵が見えちゃってますね。

    でも陵へ向かう前に、まずこちらを。
    太宗武烈王陵 碑閣
    新羅第29代太宗武烈王(在位654-661)の業績を讃えるために作られた「国宝第25号 太宗武烈王陵碑」です。
    立派な碑閣に納められています。

    太宗武烈王 亀趺
    碑閣の中を覗いてみると、なんと大きな亀さんが一匹。手といい伸ばした首といい、すごいリアルなつくりでのっしのっし前へ歩いて行きそうです・・・!
    現在は亀をかたどった台座の亀趺(きふ)と、この亀趺の上に竜を彫った碑首が乗るのみで、その上の碑の本体はすでに失われてしまっています。
    6匹の竜が描かれた碑首に「太宗武烈大王之碑」という文字が刻まれていたため、この陵墓が太宗武烈王のものであると断定されるそうです。ほとんどの陵墓の被葬者が文献や出土品からの推定であるのに対して、この太宗武烈王だけは断定されるのはその文字と、その文字が当時の有名な書家でありまた太宗武烈王の2番目の息子である金仁問によって書かれたからだということです。

    太宗武烈王陵 亀趺正面
    正面アップ。どうも石の動物たちをみるとついゆるキャラ扱いしてしまう悪いクセがついてしまっていますが(笑)、この亀さんもとてもキュートです。特に鼻の穴が。

    亀さんに別れを告げ、いよいよこの碑閣より少し奥へ進んだところにある太宗武烈王陵へ。
    チュンチュ♪チュンチュにごたいめ~ん♪とウキウキして近寄ってみます。
    太宗武烈王陵 正面
    あれ?想像よりも意外とシンプル(笑)
    いや、なんせユシン将軍の墓の次に来たもんですから、王>太大角干というわけでユシン将軍の墓以上に立派に飾られてたり、何かに守られちゃってるのかしら?なんて思ってましたが、意外でした。
    それでもやはり道は石が敷かれ整備され、草むしりのおばちゃん達がいて、派手さはないけど整えられているなという印象です。ま、シンプルに見せかけておいて、中に豪華な副葬品が入っている可能性もあります。なんせ王ですから。ドラマに出てきたような片耳の耳飾りが副葬品に入ってたりしたら素敵vなんて思ってしまいますが。

    そして、お約束のぐるり一周。今回は時計周りに。
    太宗武烈王陵 右側
    横側では、おばちゃんたちが草むしり休憩中でしたw
    この陵墓の大きさは円周114M、高さ8.7Mということで比較的大きなものですが、おばちゃん達との比較で大きさも伝わるでしょうか。

    太宗武烈王陵 背中
    背中側には松がぽつりぽつり生えています。ぽつりぽつりなので鬱蒼とはしておらず、日当たりがいい感じです。

    太宗武烈王陵 左側
    横側です。墳墓の下の部分にところどころ割石を用いた護石が見えますが、ほとんどは土の中に埋められているそうです。

    一周して正面に戻ったところで、実はこの武烈王陵の敷地内には他にもおもしろ同居人がいるんですが、そちらはまた次回にしまーす☆

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    太宗武烈王陵のおもしろ同居人
    〈2012年5月の慶州旅行の記事です〉

    前回の続きで、太宗武烈王陵敷地内のおもしろ同居人の話です。
    武烈王陵の奥の方、少し小高くなっている部分に、それはあります。

    西岳里古墳群 正面

    またまた、古墳です(笑)
    西岳里古墳群

    どこが太宗武烈王陵の面白同居人だ?ただの古墳で面白くもなんともないじゃないか!、とお思いだと思います。
    ですが、この古墳。↑の方向からみるとひとつの古墳ですが、ちょっと角度を変えてみると・・・

    西岳里古墳群

    あら、4つv

    とても綺麗に一直線上に並んでいます。高さは違いますが、下にある太宗武烈王陵を入れると5基が一直線上に並んでいます。
    この西岳里古墳群の被葬者はわかっていませんが、武烈王陵の近くにあるためそれに近い王または王族の墓と推定されています。また武烈王陵より高い位置になるので、武烈王より前の代の先祖の墓である可能性もあり、死後に文興葛文王と追尊された武烈王の父である金龍春の墓がこのうちのひとつなんていう説もあるようです。

    奥から順番に1~4号墳と名付けられています。全体的にみてもそれぞれ大きめの古墳ですが、これらの大きさを周囲の長さで比べてみると、1号墳は160m、2号墳が186m、3号墳が122m、4号墳が110mと、2号墳が一番大きなものになっています。

    慶州のまち

    4基並んでいるあたりから見下ろした、慶州のまちです。
    この太宗武烈王陵を含む西岳里古墳群は、仙桃山の南側の丘陵に位置しています。
    大陵苑など平地の慶州市の中心部にある古墳は主に積石木槨墳なのに対し、このように丘陵地に作られている古墳は大抵のものが丘陵を生かして作った石室墳であると考えられています。

    太宗武烈王陵の門を出まして、道路の向かい側にも古墳があります。

    金仁問・金陽の墓

    この場所も西岳里古墳群のうちに入りまして、こちらは武烈王の息子である金仁問と9世孫の金陽の墓と伝えられます。
    金仁問といえば、お向かいの武烈王陵の碑首に「太宗武烈大王之碑」と書いた人ですね。
    こちらにものっしりした亀さんがいたようなんですが、残念ながら予定が押していたので近くまでは足を延ばさず、道路の反対側から拝んだだけにとどめました。

    そして、その帰り道。急ぐ中、自転車をちょっと止めてみたりする。

    真興王陵と真智王陵 方面

    たぶん左手の低い山のどこかあたりに真興王陵と真智王陵と伝えられる場所があると思うのですが、
    「おじいちゃーん、子孫たちが三国統一をしましたよー」
    「子種(ピダム)を残してくれてどうもありがとうー!」
    と拝んでみました。ええ、完全にドラマ主体の発想ですw

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    徐羅伐コレクション 公主編 その11
    先月の旅行中にデジカメを地面に落としてしまいまして、それから黒い点がぼやっと写り込むようになってしまい、トンマンの美しいお顔にもぼやっと黒い点が( ̄ロ ̄;)
    これではイカン!と買い換えることになり、ようやく新しいのを入手できました。
    ということで、おまたせいたしました!トンマン公主の11着目、新しいデジカメでトンマン公主の細部までさらに迫りたいと思います・・・!(相変わらずの変態的な物言いw)

    前回は兵士の服にて王宮を脱出しましたが、今回もまた軍服という男性的な衣装です。

    ● 全身
    徐羅コレ11 全身
    まず、青い襟口が見えている衣を一番下に着ています。
    そしてその上に紫の袖の衣を着てさらにその上に布を重ねた装飾襟付きの袖のない紺色の衣を着ているのか、それとも装飾襟付きの紺色の衣に紫の袖がついているのか見るだけじゃよくわからないものを着ているんですが、もしかすると一番下の青い衣の袖が紫色という斬新なこともないとも言い切れません。
    仕組みはよくわかりませんが、全体的に青・紺・紫という同系色を使い茶色の革素材のベルトでアクセントをつけるという色彩になっています。
    紫の袖の上には、青色の布とベルトと同じ素材の革でできたこてが巻いてあります。

    ● 横姿
    徐羅コレ11 後姿
    お、セクシーなチラリズムw 
    腰から下の部分が動きやすいように左右に大きくスリットが入っていてその割れ目から足が見えますが、袴をはいた上に黒いブーツ状の靴を履いているもようです。
    ベルトより下の部分が上に羽織っている衣の延長線のものなのか、それとも別に裳を身につけているのかはっきりとはわからないんですが、上の装飾襟のついた衣の前のあわせの部分が、ベルトの部分までしか見えずその下にはないことから想像してみると、袴をはいた上に裳をつけていると考えたほうが自然なのかもしれません。
    全身の画像を見ると裳と思われるもののあわせが左側にありますが、その部分は紫と紺の重ねになっているようです。
    横のスリット部分は、内側から青、紺と重なって見えるので、一番下に着ている襟口が見える青い衣はもしかしたら丈が長いものなのかもしれません。
    うーんこの服、シンプルそうに見えて、今までの中で一番複雑で仕組みがわからないです。

    ● 後姿
    徐羅コレ11 後ろ上半身
    上に羽織っている紺の衣は肩のあたりのひらひらの曲線がかわいいですね。
    紫の袖も袖口をこてを巻いてしぼっているので、これまたパフスリーブのようにふんわりしていてかわいいです。
    腰のベルトは後ろで紐で結ぶ形になっているんですね。

    ● 衣
    徐羅コレ11 襟口
    青い衣の襟のふちには紺のバイアスがほどこされています。
    青い衣と、その上の衣の紫の部分、紫の袖部分には、小さな二葉みたいな模様が織られています。
    徐羅コレ11 肩
    紫の部分は肩で紺色に切り替わってるんですね。色々こまかいです。

    ● 髪型
    徐羅コレ11 髪紐 
    髪型は後頭部の高い位置で一本縛りにしているシンプルなものです。
    そしておでこには紺色の布のはちまきを、一本縛りの根元には茶色の幅広の布を巻き、その上に水色・黒・茶色の布を三つあみにして作った髪紐を巻いて髪と一緒にたらしています。髪紐の先を無造作に3つに開いているところが、さりげないお洒落ポイントでしょうか。

    ● 首飾り?
    徐羅コレ11 ソヨプトウ 
    今回は耳飾りもなくノーアクセなんですが、首からこれをぶらさげていたっていうことで、ここではこれを首飾り扱いにしちゃいます(笑)ご存知ソヨプトウです。
    こうしてアップで見てみると、西域からの品?と想像が広がるような鮮やかな色彩で絵が描かれている紺色のトンボ玉がついていたり、古墳出土の金冠や耳飾りについているような金の粒で装飾されていたりして、これが王族の持ち物だということがよくわかります。
    この首から下げる鎖はタクラマカン砂漠でソファが縄を切った時には付いていなかったと思うので、公主になってからつけられたものでしょうか。やはりカラフルな玉がついていて、豪華です。
    あ、相変わらず桜貝みたいな爪がキレイv

    ●この衣装の名場面
    46話 はじめてのデート恐喝編www
    46話 はじめてのデート

    ●登場話
    46話~49話

    ●おまけ
    このお衣装、個人的に美少女衣装と呼んでいます。いえ、トンマンは何を着てもかわいいし、綺麗なんですが、このお衣装を着ている時の顔のアップになると、いつもより更に「わ~美少女!」ってなるんですよね。
    なんででしょ?青が色白のお肌に映えてお似合いというのもあるかと思うんですが、同じような雰囲気のものは郎徒時代にも着ていますし。
    19話 郎徒トンマン
    46話 公主トンマン
    比べてみてどちらもかわいいんですが、郎徒時代と何が違うかというと…拡大するともっとわかりやすいと思いますが、下の公主トンマンのまつげがハンパなくくるりんとあがってます・・・!
    恐らくこの頃は郎徒生活よりも公主生活の方が長くなってきていると思うので、かなり女子力アップしてきていると思われます。


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    カエルの歌がー♪聞こえてくるよー♪ 興輪寺と霊廟寺
    〈2012年5月の慶州旅行の記事です〉

    太宗武烈王陵を出たのが16時半。自転車の返却期限が18時。1時間半あれどまだまだ周りたいところを残しているので、道を急ぎます。
    途中おもしろ街灯(過去記事「新羅愛あふるる」)やでかい酒令具(過去記事「勝手にさいころ祭り」)とたわむれつつ、30分後こちらにたどり着きました。

    興輪寺門
    興輪寺です。
    法興王が仏教を公認したのち真興王5(544)年に新羅に建てられた最初の寺院ですが、ドラマではこんな登場の仕方をしております。
    32話 興輪寺
    32話 比才のふたつめのお題、新羅のもつ3つの意味を調べるために、コチルブ公が国史編纂をしていた場として訪れた場所が興輪寺です。
    このドラマ内で出てきた本堂の現在の姿はこちらです。
    興輪寺大雄殿
    中国および朝鮮の禅宗系寺院での本堂を大雄殿と呼ぶそうですが、現在あるこちらの興輪寺は寺址に1980年代に建てられた物なので、ガラス戸があり近代的な作りになっています。

    興輪寺境内
    境内はこんな感じです。
    電柱・電線こそ新羅の時代にはもちろんありませんでしたが、遠くの山々と高い空、寺院をとりまくそんな風景は当時とさほど変わっていないものと思います。
    そして私が立っている後ろあたりに土壇が残されており、そこが古い寺院の塔の址だったかもしれないということで。

    興輪寺址看板
    これが土壇なんですが、なぜ引きで撮っていないのか…。興輪寺址の説明看板で後ろが見えませぬw ま、ただの土盛りに木や花が咲いていただけなんですけどね…!(開き直り)

    異次頓の碑
    境内には新羅の仏教を認めさせるために殉教した異次頓(イチャドン)の功績を讃えていると思われる碑がありました。思われる、というのは篆書体の文字が読めなかったのでレリーフからの推測です(爆)

    法興王が仏教の公認をした際寺院の造営をはじめましたが、仏教を認めない貴族の反対で暗礁に乗り上げました。王の近臣である異次頓は、その時に仏教を人々に認めさせるために「仏陀が神霊なるものでいらっしゃるならば、私の死後必ず奇跡が起こるだろう」と言って自ら志願して殉教した人です。その言葉通り、異次頓の首を切るや頭は飛んで行って慶州の金剛山の頂上に落ちて、首からは白い血が数十丈も噴き上がり、にわかに真っ暗になった天からは美しい花房が落ちてきて、大地が大きく揺れたという記述が残されています。
    その場面を彫刻で表現したものが、異次頓の首が飛んできたという慶州金剛山栢栗寺に伝来する「異次頓殉教碑」という石碑です。その石碑は現在は国立慶州博物館に展示されていますが、その石碑に掘られたレリーフのレプリカが現興輪寺にあるこの写真の石碑につけられています。
    彼の殉教によって新羅は仏教を正式に受容することができるようになり、そしてできあがったのがこの興輪寺であるので、ここにも彼を讃える石碑があるのだと思われます。

    異次頓殉教碑
    国立慶州博物館に展示されている「異次頓殉教碑」です。
    白い血が噴き出しているなまなましい様子と、空から降ってくるファンタジーなお花のミスマッチ風味が仏陀の神秘さをあらわしているといったところでしょうか。

    そして興輪寺関係の遺物が国立慶州博物館にもうひとつ。
    興輪寺石槽
    石槽です。石槽は、長方形や円形の石の内部を掘り込み、寺院などで使用する水を溜めておくための石造物です。水を溜め蓮華を植える容器に使われたとの説もありますが、その用途は正確にはわからないそうです。
    時代は統一新羅時代のもののようですが、石槽の上面に刻まれた銘文によると、本来は新羅最初の寺院と伝えられる興輪寺にあったものであり、朝鮮時代の仁祖16(1638)年、慶州府尹(現在の市長にあたる官)であった李必栄が慶州邑城内の琴鶴軒に移したとあります。
    石槽を見ると誰もが顔つけてぷはーーっとやってしまうであろう「郎徒トンマンごっこ」(爆)まさかこの後に訪れる予定の新羅ミレニアムパークにある本物のトンマンの石槽が工事のため見れないなんて事態が起こるとはこの時は思いもせずに無邪気に遊んでおりました。。。

    で、現興輪寺に戻りますが、敷地内に興輪寺址という史跡があるものの、実はもともとの興輪寺は別の場所にあったと考えるのが現在では一般的であるとのことで。
    近くにある慶州工業高校の構内排水路工事現場から「興輪寺」とみられる銘文を刻んだ新羅時代の瓦彫刻が発見されたことから、この場所が最初に建てられた興輪寺とみる説が有力だそうです。

    そして現興輪寺の場所はといいますと、ここで「霊廟寺」と刻み込まれた破片が収拾されたことがあり、善徳女王のときに創建された霊廟寺址とも考えられています。
    霊廟寺といえば、あれですよ、あれ!玉門池と女根谷の伝説の中の蛙が泣いた宮西の玉門池があるのが霊廟寺ですね。あと、志鬼の伝説で善徳女王が志鬼に会ってやってもいいよと言って行幸したのがこの霊廟寺だったような。

    興輪寺地図

    推測の枠を超えないのですが、この場所が陛下ゆかりの地かもしれないと思うとテンションもあがって、疲れもふっとぶ思いでした♪

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    財買井 ユシンと仲良し家族が住まう家 
    〈2012年5月の慶州旅行の記事です〉

    興輪寺を月城の方に東に600Mほど移動すると、財買井なる史跡があります。
    財買井 遠景
    なにやら広いところにぽつんと立派な塀に囲まれてあるのですが、こちら財買井は金庾信将軍の屋敷があった場所と伝えられるところで、現在は井戸だけが残っています。

    キムユシン将軍凱旋図
    その井戸のこんな逸話が『三国史記』に残されています。
    645年金庾信将軍が百済との戦に勝利し帰郷するとき、再び百済軍が侵入してくるというしらせを受けふたたび出征することになり、自分の家の前を通ることになった。そのとき家には寄らず、兵士に自分の家の井戸水を汲ませ、それを飲みながら「我が家の井戸水の味は昔のままだ」と言いながら発ったという。

    ・・・そこまで来たら美人妻の顔くらい見て行けばいいのに、というのはさておきw 金庾信将軍がいかに戦で忙しかったかというのが伝わってくるエピソードですね。

    さて、中に入ります。
    財買井碑閣

    現在隣国で放送中のキム・チュンチュ主演の某ドラマではユシンの妻ヨンモは財買夫人と呼ばれているんですよね。この屋敷の名前からでしょうか。

    財買井 碑閣と井戸
    井戸とその横に碑閣が建てられています。

    財買井 石碑
    この碑は、朝鮮時代の高宗9(1872)年に建てられたそうです。
    「新羅太大角干開国公金先生遺○碑」と書いてあるのでしょうか。下の方の字が1字読めません。

    財買井 井戸
    そしてこれがユシン将軍が水を飲んだと言われる井戸です。
    井戸は深さ5.7M、最大直径1.8M、底の直径1.2Mで、蓋は板状の平たい石でできています。
    少し覗いた限りでは底まで見えませんでしたが、何か出てきそうで怖いので(貞/子とか)それ以上は覗けませんでした(> <)

    財買井 碑閣と井戸と石
    もうひとつ『三国史記』に残されたこんな逸話。
    金庾信は金春秋を自分の妹とめあわせたく思い、誘って自宅の前で蹴鞠をし、故意に裾を踏んで襟紐を裂き、家の中に入れ妹に縫わせるということでふたりを会わせたが、春秋は庾信の意図をくみとりその妹と結ばれた。
    妹が妊娠すると金庾信は、父母の知らないうちに妊娠するとは何事だと妹を焼いてしまうことを宣言し、金春秋が善徳女王らと南山に遊幸するときを見計らって庭で薪に火をつけた。
    煙が見え側近にその理由を尋ねた王は、春秋が原因らしいと知り、急いで救いに行くよう勧め、春秋は馬を走らせて助け、のち婚礼を行った。

    そんなユシンのお見合い大作戦が行われたのもここということになります。
    ひとつ前の「興輪寺と霊廟寺」の記事に地図が載せてありますが、陛下の住む月城と財買井のある場所は、陛下が南山に遊幸するときに煙が見えるほど近くににあります。
    ソヒョン・マンミョン夫妻と仲良し家族達も同じ屋敷に住んでいたのでしょうが、さすが王室に近い人達だからでしょうか、なにかあればすぐに王宮に駆けつけられるようなそんな良い立地条件のところに住んでいたようですね。

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