ドラマ「善徳女王」のファンブログです

    善徳女王陵のご近所さん
    あ、暑い…。石氷庫に入りたい…、と思いつつw 慶州の旅話の続きを。
    善徳女王の眠る狼山には他にもいくつか史跡があります。
    特に調べて目的地としたわけでもないんですが、たまたま出会ったのでご近所さんのよしみで(笑)お邪魔させていただきました。



    自転車に乗って10分ほど走ったところでソンドクヨワンルンと書いていある小さな看板を発見し、ここだぁ~と思い、自転車を止めて山をのぼろうとしました。が、少し前へ進むとその先の道がめちゃめちゃ細いんですよー。
    確かに「善徳女王陵」はひっそりと静かなところにあるとは聞いてましたが、いくらなんでも細すぎ。きっともうちょっと自転車で先に行ったところにちゃんとした入口があるにちがいない、と引き返す途中に出会ったのがこちらです。

    陵只塔
    陵只塔
    統一新羅時代に建てられたものと推定される石造物で、高さ4.49Mである。陵旨塔、陵示塔または、蓮華塔と呼ばれる。復元するときに原型がわからなかったので、二段まで築き上げ、残りの石は横に集めておいた。
    この塔跡は文武大王の屍身の火葬跡と推定されるが、発掘の時に大きな塑造仏像の破片が出て、塔廟とする説もある。
    1979年には基段部を復元し、上部を推定して整理した。本来は基壇のまわりに十二支像が立てられ、蓮華文の石材で作られた5重塔と推定される。

    と、現地の案内文にありました。
    文武王といえば、チュンチュJr.で三国統一時の王ですが、『三国史記』には王の遺詔として、「臨終ののち十日したならば、庫門の外庭において西国の儀式にのっとって火葬せよ。」とあり、その遺体を焼いた場所がここであると言い伝えられているんですね。で、その遺骨はここから30キロほど離れた海岸にある文武大王海中陵(大王岩)に葬られています。
    にしても、石がバラバラに散乱してあったものを近年にその場所に組み直して復元したということで、推定5層のうちまだ2層しかありませんが、うまくはめこんだなぁと。なんかパズルみたいですね。
    基壇には十二支像がいるようですが、これはのちほど行くユシンの墓にもあるので、略w



    そして自転車に乗りなおしてたどり着いた大きい方の「善徳女王陵」入口にあったのが、「四天王寺址」です。

    四天王寺址
    四天王寺は狼山の南側の麓に位置しており、新羅時代の文武王19(679)年に明朗法師が発願して建てたお寺である。三国を統一した新羅が仏の力で唐の勢力に対抗しようという護国念願が宿っている寺院で四天王寺成典を置いて管理するようになった。
    今は金堂跡をはじめ木塔跡、建物跡、幢竿支柱、碑石台の亀趺などが残っている。遺跡の一部は日本による植民地時代に鉄道を敷くため、取り壊された。
    四天王寺から出土された四天王像塼の破片は、当時最高の彫刻家である良志の作品として力強く写実的な塑像で、現在は国立中央博物館と国立慶州博物館で展示されている。

    と、現地の案内文にありました。
    善徳女王的には、『三国遺事』に陛下の聡明で霊妙さを証明する逸話として四天王寺が出てくるので、ありがたいお寺でありますv
    過去記事参照→「いま陛下に会いにゆきますv ご対面編

    四天王寺発掘現場
    柵の外から見ても、何が何だか。工事現場にしか見えません…!
    ここに立てられてある案内板を見ると、「国立慶州文化財研究所 文化財保護班が過去の四天王寺の性格を明らかにするための発掘調査を進行しています。遺跡調査と保存のために観覧動線を守って下さい。」と、まぁだいたいこんなことを書いてあるのではないかと。翻訳サイトによると(笑)

    別の場所にあった案内板なんですがそれには、「国立慶州文化財研究所で新羅王京の都市構造と性格を明らかにするために2007年11月より発掘調査を実施している地域です。遺跡保護のために無断侵入を慎んで下さることを願って、観覧を希望される方はあらかじめ調査チームに問い合わせして下さい。」とこんな感じ?
    どうやら予約しておけば、発掘中ですが見れるみたいですね。但し5年も経っているので、この案内文が今でも有効かどうかは定かではありません。
    それよりこの案内板の「新羅王京」という言葉が気になりまして。統一後は北は北川(閼川)から南はここまで新羅の王京が広がっていたと主張する方もいるようで、今は静かですが当時はこのあたりの陛下が眠る辺りも王京内ということで、にぎわっていたのでしょうか?王京と言っても端っちゃあド端ですが。

    四天王寺址 幢竿支柱
    これは、柵で囲われた発掘現場ではなくて国道からの入り口のすぐそばにあった「幢竿支柱」です。
    慶州の寺院跡には金堂や塔がすでに存在しなくとも幢竿支柱であろう石の遺物が残っている寺院跡が何箇所かあります。
    幢竿支柱とは、幢旗(長い布の旗)を垂れ下げるための竿を支えるもので幢竿をしっかり支えるために石材が用いられることが普通です。この2つの石の間にはまるような太さの竿、というかもはや竿というイメージよりは木の柱という太さですが、その木の柱や布の旗は腐朽して石でできた支柱だけが残ってしまったようです。
    四天王寺は国家鎮護・都京防衛の祈願をこめて創立したということですので、幢竿に下げた幢旗には国家の安泰の祈りをあらわした文字が書かれていたとも考えられるとか。
    石は寺院の廃絶後は畦畔のそばにあって川水をせきとめるせきとして利用されていたということで、もともとどこに立てられていたかわからないながらも1928年になって現在の位置に立てられたそうです。国家の安泰を願って栄えた寺も、新羅の滅亡からながい年月の間に建築物は倒壊し、民がそれを生活に直接繋がる田畑に利用していたというのがなんともリアルな話しだなぁって思っちゃいました。

    幢竿支柱については全く無知だったので、斉藤忠氏著の『幢竿支柱の研究』を参考にさせてもらいました~!



    たまたま出会ったふたつの史跡は、どっちも文武王関連だったんですね。って記事書きながら今頃気づきました(遅)

    ※画像を選択いただくと拡大して見れるようになってます

    関連記事

    コメントの投稿

     管理者にだけ表示を許可する

    遺跡の上が畑
    mukuge 様

    遺跡の上が畑というのは、日本でもよくあります(笑)。
    大昔、某大学の史学科研修旅行では、風が吹きすさぶだだっ広い田畑の前で、担当班の学生が「ここは1000年前の〇〇寺跡で~」などと発表する姿が見られました。「少々の想像力では復元不可能」な何もなさでしたねぇ。ローマとかだと、石の固まりなどが転がっていて、そこそこ僧都力を刺激してくれるのですが、奈良は厳しいです。
    で、慶州も厳しいようすね(笑)。鉄柵とか、青いビニールシートとかって、それはないよね、という感じ。発掘中というのは理解できますが。
    せめて、説明板に、もう少し色気が欲しいかな、と。
    midorin | URL | 2012/07/28/Sat 23:06 [編集]
    midorin様へ
    midorin様

    こんばんはーv コメントありがとうございます。ちょっと出かけておりまして、お返事遅くなってすみませんf(^_^;
    そうなんですよね。想像するにはせめて礎石とかそれなりの下地がないと厳しいですよねー。妄想するのは得意なんですが(え?w)
    でも何もない田舎の田畑の方が都会の中の遺跡よりは、その上の建物を思い浮かべるのに想像は難しくとも妄想はまだできるのかも。都会の中の遺跡(難波宮跡とか)は近代的な建物が周りにあって、私の妄想パワーも歯が立ちません(汗)
    この四天王寺は、下のブルーシートやらなにやらを見ず、後ろの狼山のほうだけを見ながらここにお寺があったんだなぁと瞑想してみたら…一応はなんとかなりました(笑)
    梵鐘の音とかのBGMを持っていったら完璧だったかもしれませんw
    mukuge(むくげ) | URL | 2012/07/30/Mon 18:26 [編集]
    トラックバック
    トラックバック URL

    Copyright © こうもりのサンガラクチ. all rights reserved.