ドラマ「善徳女王」のファンブログです

    キムユシン将軍の墓?陵?
    慶州の旅のお話の前に。先日ソウルに行った際国立中央博物館にまた寄りまして、今度はゆっくり見れたのでいくつか路東洞古墳群の遺物の写真を撮ってきましたので、せっかくですから写真追加でアップしておきました。よろしければご覧になってみてください→過去記事「通りすがりに出会った路東洞・路西洞古墳群



    慶州の市街地を自転車で横断して西の方へ来ると丘陵地帯になりますが、金庾信将軍の墓という看板から山道に入っていき、その坂道を自転車でのぼること5分。いえ、さすがに漕いでのぼる体力がなく押してのぼりましたが、ユシンの墓に到着しました。
    あ、ついついドラマのユシンのイメージでユシンユシン言ってしまう私ですが、金庾信は慶州の人達の英雄です。別の日にタクシーに乗った時に窓から隍城(ファンソン)公園というところの金庾信将軍像が見えたんですが、「ユシン!ユシン!」と騒ぐ私をよそに運転手のおじさんが「ユシン公(ゴン)。キムユシン将軍(チャングン)。」とつぶやいたのを私は聞き逃しませんでした。おじさん、偉大な金庾信将軍を呼び捨てにしてしまってすみません・・・!でも私がユシン言ってるのは方向音痴がトロくさいけどそこもまたご愛敬で、質実剛健のかっこいい男オムさんユシンのことですからー!w

    案内図 
    坂をのぼりきったところに駐車場、案内図、そして券売所があります。たった500ウォンですが入場料がかかります。それだけでも整備されている雰囲気がありあり伝わってきます。
    今回はそこまで足を延ばしませんでしたが、奥には金庾信将軍を祀るための崇武殿という施設と、金庾信将軍の位牌を祀った金山齋という建物があります。

    案内図より 金庾信将軍の墓 史跡第21号 
    金庾信は金伽耶最後の王である仇衡王の曾孫で、15歳に花郎(新羅時代、青少年の民間修養団体の団員。国のために身も心も捧げる人たち)になり、武芸や知略に優れた人で、新羅が混乱に見舞われる時にはいつも先頭にたって指揮した。
    太宗武烈王7年(660)には新羅と唐の連合軍が結成されたが、そのときに金庾信は新羅軍の総司令として百済を滅亡させた。また、文武王8年(668)には高句麗を併合させ、ついには唐も韓半島から追い出した。
    墓の規模は円周50M、直径18M、高さ5.3Mであり、下には高さ1.2Mの十二支神像が刻まれた護石で囲まれている。

    その案内図の横にはこんな面白看板も。
    案内板
    アメコミ風のシュールな画風がいい感じです。武烈王の陵にもこういう看板があったので、詳しくはのちほどまた。

    碑閣
    券売所・駐車場エリアから石段を上がった所にある石碑です。「新羅太大角干」と大きく書かれている下に金庾信将軍の業績などが書かれている…っぽいです。いや、読めなかったのでw

    興武門
    死後に追封された「興武大王」という名前からとったであろう興武門をくぐり抜け墓へ向かいます。

    金庾信将軍の墓1
    見えてきました、金庾信将軍の墓。石畳の道、手入れの行き届いた植木、石段、そして墓を取り巻く柵、とても整備されているのがよくわかると思います。
    先に善徳女王陵を見てしまったうちの母は「ユシンと比べて善徳女王がかわいそう(´;ω;`)」「トンマンかわいそう(´;ω;`)」と連呼。もう帰って来てから何ヶ月も経つのにいまだに「ユシンとチュンチュの墓は立派だった」って言う位、ひっそりとしていた善徳女王陵に比べて衝撃的に豪華で立派なんですよー。
    いえチュンチュはわかります。太宗武烈王ですから。でもユシンは王に限りなく近い王族であり、死後何年も経ってから「興武大王」と追封されてはいますが、決して王だったわけではないんですよね。
    また、この金庾信将軍の墓は「伝 金庾信将軍の墓」とも言われていまして、実は本当に金庾信将軍の墓かどうかは疑わしいところもあります。まぁ太宗武烈王陵以外みなそんな感じらしいんですが。

    金庾信将軍の墓2
    円墳の周囲には石と石の柵がめぐらされ、石には十二支神像が刻まれています。この墓は文武王14(674)年に築造されたと伝わりますが、十二支神像の様式からみてもっと後世になってから豪華に祀られなおされたとしたほうが自然なようです。それに至る大人の事情ってやつを色々想像してみるのも楽しいですね。

    大角干金庾信の墓 墓標
    墓に向かって左側に立っている墓標です。「新羅太大角干金庾信将軍墓」とあります。
    『三国史記』によると、太宗武烈王7(660)年百済を滅ぼした功績によりそれまでの最高位「角干」に大の文字をつけて「大角干」となり、さらに文武王7(668)年冬10月「大角干」を上回る官位として設置された「太大角干」を贈られたということです。角干の上、角干の上の上というように一字ずつ増えていくのがなんとわかりやすいことか。

    興武王陵 墓標
    墓に向かって右側に立っている墓標です。
    673年に金庾信将軍が亡くなったのち150年経った興徳王(在位826-836年)の時代に「興武大王」に封じられたということですが、この墓標の字をご覧ください。「開國公純忠壮烈興武王陵」とあります。陵は王の墓の意味ですが、いくらのちに興武大王と追封されたとはいえ実際には王だったわけではないのに陵が使われおり、墓の豪華さと同じように、呼び方も王の扱いになっています。
    そして不思議なのが、ちょっと検索してみると陵の文字の部分ですが“陵”という字をつぶして上に“墓”と掘りなおした跡がはっきり見える写真もあるということなんです。私のと同じように、“陵”となっている写真を載せている人もいるので、陵→墓→陵とか色々変えられているのでしょうか?金庾信将軍の扱いについて色々試行錯誤している様子がうかがえて面白いです。

    では墓に近づいて墓をとりまく十二支像を見てみたいところですが、続きは次回へ☆

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